廃藩置県と琉球処分の考察 – その1

今回は、前々回に公開した「県政百年の知事メッセージ(昭和54年)」に関連して、同時期の沖縄タイムスの記事と比較したところ、「県政百年」に関する認識の違いにじわじわきたので、試しに記事にまとめてみました。

結論を先に申し上げると、昭和54(1979)年の県政百年に関して、琉球新報が冷静な態度に終始しているのに対し、沖縄タイムスは批判的な立場を取っています。それはつまり、琉球新報側は明治12(1879)年4月4日の太政官布告を以て沖縄県の設置と認識していることに対し、沖縄タイムス側は同年3月27日の「首里城明け渡し」を以て沖縄県の設置と捉えている点の違いかと思われます。

※参考までに、沖縄県公文書館は明治12年3月27日を以て沖縄県の設置と認識しています。

どちらが歴史的に正しい認識かは置いといて、ブログ主が見た限り、3月27日を以て沖縄県の設置と認識している人たちが「琉球処分」という言葉を使っている感がありますが、よくよく考えてみると、この用語は大日本帝国時代にはなく、アメリカ世の時代の昭和35(1960)年以降から一般に認識されるようになったのです。

つまり、「琉球処分」はアメリカ世という特殊な環境下において、初めて公認された歴史用語なのです。そして、この否定的なニュアンスを含んだ用語の広まりは、当時の歴史的大事件である復帰運動、それに伴う昭和47(1972)の「沖縄県の設置」が深くかかわっているので、この点について調子に乗って考察します。

理解の補助として、アメリカ世の復帰運動について説明すると、昭和27(1952)4月の琉球政府樹立における琉球の帰属について、日本復帰は多数派も、独立や米国への信託統治、あるいは国連による信託統治など、民間では意外にも幅広い議論がなされています。ただし琉球の政府機関、および教育行政が軌道に乗ると、日本への復帰が大多数を占めるようになります。

当時の復帰運動をチェックして、実に興味深いのは、琉球の日本復帰が現実味を帯びてきた昭和43(1968)年ごろから、復帰の在り方を巡る路線対立が先鋭化し、それまで民間における復帰運動の中心的な役割を果たしてきた沖縄県祖国復帰協議会(以下復帰協)が、昭和44(1969)年から事実上の反復帰路線を明確に打ち出したことです。

復帰の在り方における路線対立については、大まかに説明すると、当時の保守系の政財界は「施政権の返還(つまり米軍基地はそのまま)」を主張していたのに対し、革新共闘会議とその支援団体は「即時無条件全面返還」のスローガンのもと、米軍基地と核兵器の撤去も含めた “完全復帰” を強く訴えていました。

ただし、現実には日米交渉において「施政権の返還」、つまり米軍基地はそのまま残る(ただし核兵器は撤去)の条件で話が進み、琉球政府側も「施政権の返還」を優先したため、屋良主席および琉球政府は、昭和43(1968)年の主席選挙で「即時無条件全面返還」の公約を掲げて当選した屋良氏を推した支持団体から強い反発を受けます。

ハッキリ言うと、屋良主席は「公約違反」をして、昭和47(1972)年5月15日の本土復帰を実現させたわけですが、その結果、彼を推した革新共闘会議やその支持者たちのやり場のない怒りが「琉球処分」という歴史用語に色濃く反映される副産物を生んでしまったわけです。

それはつまり、

沖縄の本土復帰は、県民の意にそぐわない形で実現してしまった。おそらく明治12年の廃藩置県も同じだったのだろう

との予断が、「琉球処分」という歴史用語に色濃く反映されているわけです。問題は、こうした時代背景が全く考慮されず、「琉球処分」という言葉が一人歩きして、しかも「沖縄は差別されている」との命題と合体することによって、民族における悲劇として取り扱われている傾向がある点です。次回はこの点について、ブログ主なりに言及します(続き)

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