廃藩置県と琉球処分の考察 – その3

(続く)前回の記事において “72返還の怨念” が明治12(1879)年の廃藩置県の歴史認識に大きな影響を及ぼしている件についてブログ主なりに説明しました。

ちなみに廃藩置県という歴史的事件を否定的に捉えているのは、復帰前後から現代までのわずか50年程度であり、それまでは大雑把にいって世間では肯定的に認識されています。それはつまり、伊波普猷先生の廃藩置県に対する解釈が絶対的な影響を及ぼしていたわけであり、今回はこの点について言及します。

伊波先生の廃藩置県に関する認識は、「進化論より観たる沖縄の廃藩置県(古琉球)」と、琉球見聞録の序文「琉球処分は一種の奴隷解放也」の2つの論説に目を通せばよく理解できますが、要約すると「琉球民族は薩摩の支配下において奴隷的境遇に置かれていたが、明治12年の廃藩置県の結果、日本民族のもとで再び飛躍する機会を得た」になります。

ただし、それだけでは不十分であり、伊波先生は「琉球民族はことの重大性をまだ理解できていない」と嘆いている節があります。参考までに「琉球見聞録」の序文から引用すると、

私は琉球処分は一種の奴隷解放と思っている。誰でも冷静に考える人は、成程と頷くに相違ない。ところが三百年このような悲しい暗い生活(=薩摩による支配の時代のこと)に馴致された琉球人は、この奴隷解放というサーチライトを差向けられて、一際まばゆく感じた、そしてこの新しい光明を忌嫌って、ひたすら従来の暗黒を恋慕った。私は近頃アメリカ黒奴の偉人ブーカー・ワシントンの著書を読んで、之に似通った事実のあることを知った。それはアメリカで奴隷解放が実施された時、無自覚の奴隷等が兎角自由の身にはなったが、自己将来の生活が如何になりゆくかを憂いて、泣叫んだということである。実際人間は導かれる理想の光を認めることが出来ず、又進むべき標的を見出しかねる場合には、自由を与えられて却って悲哀を感じ、解放されて却って迷惑に思うものである。兎角幸福以上の或物を与えられて、その有難味を知らないのが奴隷の奴隷たる所以である。琉球史の真相を知っている人は、琉球処分の結果、所謂琉球五國は滅亡したが、琉球民族は日本帝国の中に入って復活したことを了解するであろう。

とあり、その後に「兎に角沖縄における奴隷解放は明治12年に施行された訳であるが、それはほんの形式上のことで、大正3年の今日に至ってもなお沖縄人は精神的には解放されていない(下略)」と述べています。この批評の極めて興味深いところは、日露戦争から10年近く経過した沖縄社会においても、いまだ旧慣習が根強く残っていることを伺わせる件であり、また伊波先生の琉球史研究における情熱の源は何か察することができる点にあります。

ただし、伊波先生の廃藩置県に対する解釈も、「新教育の施行」と「二大戦役(日清、日露)の勝利」という歴史的事件の結果、このような解釈が導かれたわけであり、つまり ”時代の制約” のもとに廃藩置県に対する肯定的な評価がなされたのです。

それゆえに伊波先生の論説イコール廃藩置県の真相ではなく、あくまでも「解釈」として捉えなければなりません。つまり、歴史的事件の評価は、時代によってそれぞれ異なるのが当然であって、「廃藩置県」についても、伊波先生の解釈も、現在の否定的な捉え方とは別の、近い将来に新たな解釈が誕生する可能性は否定のしようがないのです。

最後に、次回の記事において、「廃藩置県」におけるブログ主なりの解釈について言及します(続く)。

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