恒産なくして恒心なし

ブログ主はできる限りの時間を設けて、毎日古典を読むことを日課つけています。以前当ブログにおいて“現代社会の古典離れを憂うお話 その2”と題して西銘順治さんのコラムを掲載したことがあります。記事として掲載した以上、古典の再読に取組まなければならないと思い、先ずは四書 (大学、論語、孟子、中庸)の通読を試みている最中です。

実際に古典を再読した後に(歴史)史料や新聞記事を読むと、いままで見えてこなかったものが見えてきたりして、これまで地道に取組んできた古典の再読はムダではなかったと実感しつつ、今回は孟子 – 梁恵王章句上から下記の一文を抜粋します。有名な諺ですが、読者の皆さんご参照ください。

・読み下し文

王曰く、吾悟(くら)くして是(ここ)に進むこと能わず。願わくは夫子吾が志を輔(たす)け、明らかにして以て我を教えよ。我不敏(おろか)なりと雖も、謂(こ)う之を嘗試(こころ)みん。(孟子)曰く、恒産無くして恒心有る者は、唯(ただ)士のみ能くすと為す。民の若きは則ち恒産無ければ、因りて恒心無し。苟(いやしく)も恒心無ければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)、為さざる無し。(中略)

・現代文

王はいわれた。「わしは愚かもので、そこ(仁政と)まではとてもいけまいが、どうか先生、わしの希望をたすけて、もっとハッキリと教えていただきたい。わしは不肖(おろか)ながらも、なんとは一つやってみたい。」 孟子はいわれた。「恒産がなくとも、いつもきちんと恒心を失わずにおられるのは、ただ限られたごく小数の学問や教養のある人だけで、一般庶民は恒産がなければ、つれて恒心はないものです。もしひとたび恒心がなくなると、わがまま・ひがみ・よこしま・ぜいたくなど人はしたい放題、どんな悪いことでもやってのけます。(中略)

捕捉として、

・恒産:一定(恒)の収入や財産

・恒心:しっかりとした(恒)こころ。道義とか良識とかをさす。

と解釈しても誤りではないでしょう。孟子の指摘どおり、一定の収入がないと民衆は“放辟邪侈(ほうへきじゃし)”に陥り、どんな悪いことでも犯してしまう恐れがあります。だからこそ古代から現代社会において可能な限りのセーフティーネットを提供して、秩序の安定を図る政策が最優先されます。

二千年以上前の孟子の時代も、現代も状況は同じで、まさに

昔あったものも、これからもあり

昔起こったものは、これからも起こる

日の下に新しいものは何一つない(旧約聖書 – 伝道の書 1.9)

と言えますが、残念ながら現代社会には例外があります。例えば下記 Web サイトをご参照ください。

基地建設を止める奇跡の一週間 – 辺野古ゲート前連続6日間500人集中行動実行委員会

現代社会はセーフティーネットが充実していて、本当の意味での“恒産無き者“はごく僅かと言っても誤りではありません。そんな中、正義を唱えて地元住民に大迷惑をかける集団が現存していますが、この抗議行動の参加者は、はたして”恒心“の持ち主なのか?極めて疑わざるを得ません。どうみても現代版 「放辟邪侈」 の集団にしか見えません。

“恒産なくして恒心なし”は対偶を取ると“恒心あるものには恒産がある”になります。心の安定がある人には、それを支える土台(収入、財産など)があるという意味ですが、現代社会において恒産があっても放辟邪侈の振る舞いをする集団が存在し、仮に地下の孟子がそのことを知ったなら驚愕すること間違いありません

問題はそういう人たち、および集団が現代の沖縄社会に一定の影響力を及ぼしていることです。そしてそれを支持するマスメディアが存在すること、決して好ましい状況でないことも確かです。少なくとも子どもの教育には良くない。何とかしたいと思いつつも、(いまの自分には)何もできないもどかしさを感じつつ、今回の記事を終えます。

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