人物

久高島印象記 (4)- 又吉康和

 結婚 日本全國には結婚に關する奇が多からうが、我が久高島も亦その一つであらう。先づ婚約は男女幼い時兩方の親の勝手極めて置く、子供達の心中は始めから眼中にない。これからに現代離れして居る。

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久高島印象記 (3)- 又吉康和

 われ等は神の探し出す心持で此の憧憬の島に上陸した。此の島の住民は誰でもアマミキヨが島を造、白樽が開だと信じて居る。交通不便の爲め古い風俗慣が古の儘遺されてゐる。彼れ等は太陽は東の海より出て、西の丘の彼方に沒するものだと信じ、雨は龍が雲を集めて降らすものと信じて居る。草も木も神に依つて生じ、人間も犬も猫も神の使であると信じて居る。そこにはコロンブスの亞米利加發見もなく、ニユウトンの引力もなく、ダーウヰン進化論もない。地上の幸、不幸は總て神の喜怒哀樂に依つて支配されて居るものと信じて居る。

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久高島印象記 (2)- 又吉康和

 白樽一男二女を擧げた。長女於戸兼樽(オトカネタル)は女の職に任ぜられ山嶽の祭を司つた。長男眞仁牛(マニウシ?)は父の家統を繼ぎ、其の子孫繁昌した。(外間根人は其の後裔である)二女思樽(ウミタル)は巫女になつたが後玉城間切の巫女に擧げられて、城内に居た。其の天姿の艶麗と貞操律儀堅く、物腰の端正なること常人の及ぶ所でなかつたのでち評判となり終には國王に召され宮中に入り其の寵愛を受けた。

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久高島印象記 (1)- 又吉康和

 それは各間切に諸按司が城を築き、石垣を高くして兵火のえない昔のことであつた。玉城間切は百名村(今の玉城村字百名)に白樽と云ふ一人の若い男が居た。此の男は性質温厚篤実で、從つて親に孝友と交つて信、常に自分の良心に從つて惡を斥け善事を爲した爲め、間切内の人氣者であつた。それで領主玉城按司のお目がねに叶ひ、若按司鬼武能の姫の婿に選ばれて目出度夫婦となつた。白樽は世の幸を一身に集めた故に、他若者達から羨望の的となつた。

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沖縄ヤクザ関連のトリビア

今回はこれまでブログ主が精力的に蒐集した沖縄ヤクザ関連のちょっとした小ネタを提供します。年末年始の忘年会あるいは新年会など飲み会の雑談で利用していただくとありがたいです。

今回に限らず沖縄ヤクザ関連のお話は原則として新聞など公開情報を元にしています。伝聞あるいは非公開情報は取り上げないようこころがげていますのでご了承ください。

※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部加筆・修正済。訂正を加えた分は青地で表記しています。

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彽徊趣味断片 – 此一篇を末原實一郎氏に捧ぐ –

今回は大正13(1924)年4月発行の『沖縄教育』から「彽徊趣味断片」と題した随筆を紹介します。筆者は当時編集長を務めていた又吉康和さんで、往年の首里郊外の景観が美しい文章で紹介されています。

原文はすこし読みにくいところがあったので、思い切ってブログ主が旧漢字を訂正しました。プラス”其の”や”尙ほ”などの現代では使わない用語もひらがなに変換することで原文のよさを損なうことなく、現代人にも読みやすい文章に編集しました。音読することをお勧めします。大正時代の知識人のレベルの高さを実感しつつ、当時の首里郊外の情景が目に浮かんでくる名文です。読者の皆さんぜひご参照ください。

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図解してみた – 幻の組織”極南会”

昭和38(1963)年11月21日から、又吉世喜殺害未遂事件(ほか証人脅迫)の裁判が米国民政府高等裁判所で始まりました。被告人は喜舎場朝信、新城喜史で、実はこの裁判は琉球・沖縄の歴史上初の “大陪審員制度” で行われた歴史的な出来事です。

ちなみに実行犯の(疑いがある)山中一夫は国外である “宮崎県” で逮捕されるというこれまた異例の展開ですが、この裁判においてコザ派内部に “組織” が存在していたという証言が飛び出して世間は騒然とします。

※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部レイアウト変更済。

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勇吉、秀吉は組に帰せない

今回はブログ主が蒐集した沖縄ヤクザ関連の史料のなかから、多和田真山さんのインタビュー記事を掲載します。昭和53(1978)年11月30日発行の大島幸夫著『沖縄ヤクザ戦争』から抜粋しましたが、ブログ主は取材にたいして出来る限りの応対を心がけている多和田会長の態度に驚きを隠せませんでした。

約二時間ほどの取材で、記事も(おそらく)インタビュー全文を掲載していませんが、それでも抗争の経緯や旭琉会の立場、そして今後の成り行きについて丁寧に説明しているあたり、やはり彼はトップに立つ人物だと実感しました。ブログ主が多和田真山さんに強く興味を持ったのも、この記事をよんだことがキッカケにあります。該当部分を書き写しましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。

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又吉世喜さんのマスコミデビューの記事を見つけたお話

今回は通称スターこと又吉世喜さんが始めて沖縄マスコミに登場した記事を紹介します。

彼の存在は昭和36(1961)年に月間沖縄11月号の特集記事『縄張り”暁に死す”』で世間に知られるようになりましたが、その記事より4年前の昭和32(1957)年1月に沖縄タイムスおよび琉球新報に彼の起こした(であろう)傷害事件が掲載されていました。先ずは沖縄タイムスの記事全文を書き写しましたので読者のみなさん是非ご参照ください。

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ハジチ考

ここ数日、当ブログのアクセス数が異常な伸びを示していたので、Google Analytics を使ってその原因を探ってみました。どうやら令和元年8月26日の沖縄タイムス電子版の記事がきっかけで、当ブログの該当記事にアクセスが集中したようです。

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おくやみ欄と暴力団 – その2

前回「おくやみ欄と暴力団」と題した記事を配信しましたが、実はそのほかにも沖縄ヤクザ関連のお悔やみ記事を入手しましたので紹介します。正直なところ掲載されている人物のメンツがあれなので当初は公開をためらったのですが、戦後沖縄社会を伺う上で一級史料であるのは間違いありません。そのためブログ主判断で公開しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。

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図解してみた – 第六次沖縄抗争

既報ですが、7月12日に指定暴力団「旭琉會」の富永清会長が死去しました。当ブログでも当日午後から彼について言及した記事のアクセスが異様に伸びていたので、現代の情報伝達スピードの凄さを実感した次第ですが、今回は “富永清” の名を世間に知らしめた第六次沖縄抗争について図解を試みましたので、読者の皆さん是非ご参照ください。

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砂糖取引の改良を望む

今回は明治34年1月11日付琉球新報2面に掲載された論説を公開します。ブログ主はこの論説の存在を「琉球新報は何事を為したる乎」で初めて知りましたが、実際にチェックすると琉球国から明治にかけての糖業の致命的欠陥を伺うことができる第一級の史料であると確信しました。その欠陥とは流通ルートを薩摩人(あるいは鹿児島県人)の糖商に牛耳られてしまったため、黒糖の買い手が圧倒的に有利であったことです。

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廣告の利益

今回も太田朝敷関連の資料を掲載します。琉球新報は明治33年7月15日から紙面を大幅に改良しますが、その2日後に「広告の利益」と題打った社説を掲載します。ブログ主はこの論説を非常に重視していますが、その理由は琉球新報社が営利を意識して新聞を発行していたことがハッキリ分かるからです。

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寄奈良原男爵書

今回は明治33(1900)年9月17日付琉球新報の無署名記事「寄奈良原男爵書」を紹介します。奈良原繁知事在任中(1892~1908)に掲載された知事評は実に珍しく、しかも論評が極めて冷静かつ的確であり、明治時代のジャーナリストのレベルの高さと社会における言論の自由度を伺える内容となっています。

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