人物

骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■5■ / 壊滅作戦

多和田会長射殺事件は犯人2人の早期逮捕と県警の厳重な警戒体制が功を奏して、今のところ内部抗争に発展する気配もなく、事態はいちおう沈静化の方向に動き出したようだ。しかし暴力をバックにした不法集団内部の陰湿な権力闘争によって、県民の受けた迷惑は計り知れない。

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今帰仁延子さんの考察 – その3

(続き)10代の経験が、後年に及ぼす影響についてはよく知られていますが、今帰仁さんも例にもれず、13歳から17歳までの4年間に受けた教育がその後の生きざまに決定的な影響を及ぼしたことは間違いありません。

その前に、彼女が如何に “特別な存在” であったかについて同級生の証言を紹介します。

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今帰仁延子さんの考察 – その2

(続き)今回は、ブログ主が確認できた史料を基に、作成した今帰仁延子さんの年表をアップします。すると、幼少期の体験が今帰仁さんに決定的な影響を与えていたことが理解できますので、そのあたりをできる限り、そして調子に乗って分かりやすく説明していきます。

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今帰仁延子さんの考察 – その1

年末から年始にかけて、ブログ主は可能な限り時間をつくり、過去に蒐集した史料の整理・整頓を行ないました。その際、昭和43年(1968)7月5日に起こった「琉球銀行若松支店強盗事件」の新聞史料をチェックしたところ、驚くべき記事を発見しました。

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“長寿県沖縄” という戦後最大のユクシムニーの考察(3)

(続き)前回の記事の〆で、「長寿県沖縄というブランドを確立してジン儲けしようという品性卑しい大人が存在する限り、県民が本気で生活習慣の改善に乗り出すことは絶対にありえない」などど、ブログ主らしからぬ(?)キツいことを言ってしまいましたが、実はちゃんとデータがあっての発言なのです。

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金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 又吉世喜(3)

(続き)復帰後にも心配された本土ヤクザの進出もなくて、結成から3年半ほどが無事に過ぎて、ホッとしていたときに上原勇吉の事件が起きたんです。

じつを言うと、勇吉と私は親しい間柄だったんです。もう1人、山原派の理事の座安久市と3人でよく飲みに行って、いろんな話をしたもんです。勇吉と座安の2人がターリーから1000ドル、私がスターさんから1000ドルもらって、3人で遊技場を経営することにもなってもいたんです。

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金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 又吉世喜(2)

(続き)金城「スターさんは沖縄のヤクザの世界を守った人です。そして、そのために命を落としたんですよ。あの人を亡くしたことは大きな痛手でしたが、戦中から戦後にかけての沖縄はそういう血をたくさん流さなければならなかったんです。そういう犠牲なくして、沖縄人は生きてはいけなかったんです。命がけで守らなければ沖縄社会はヤマトンチュー(本土人)のものになってしまった。スターさんの死はそういう犠牲の一つなんです。

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金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 又吉世喜(1)

(続き)那覇派はコザ派よりはかなり遅れて、昭和35年ごろにようやくまとまりを見せたのであるが、首領としてそれを率いたのが、通称「スター」こと又吉世喜だった。

那覇派の母体は空手道場の門下生のグループで、「戦果アギャー」が主体のコザ派とは性格を異にする。どちらかといえば沖縄の武芸者集団といった色合いがあり、コザ派よりも保守的で、本土ヤクザとの交流もまったくなかった。

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金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 田場盛孝、喜屋武盛一、多和田真山

(続き)那覇派幹部の田場盛孝が、組員約70人を率いて那覇派を離れ、宜野湾市普天間に普天間派を結成したのは、昭和39年4月のことだった。

田場は元は米軍のトラックの運転手をしていて、「戦果アギャー」のリーダーだった。だから、立場としてはコザ派に近かったのだが、彼は喜舎場朝信とも新城喜史とも折り合いがわるかったので、コザ派には加わらなかった。

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三代目旭琉会 – 分裂〈下〉

二代目多和田会長が射殺された後、三代目翁長良宏会長が就任。表面上は対立もなく、平静さを保っていた。しかし、今年の五月三日夜、那覇市内の翁長会長宅と沖縄市の富永一家事務所にそれぞれ配下多数が終結したことから、内部対立が再び表面化した。

この時は双方の幹部が山口組の仲介で話し合いを持ち、そのままの体制を維持することで一応の決着が図られた。しかし、月に一回定例で開かれていた総長会議は、和解後も開催されていなかったことから、双方の緊張状態は解消されず、一色即発の火ダネがくすぶり続けていたといえる。それが連続発砲事件で一気に噴き出した形だ。

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三代目旭琉会 – 分裂〈上〉

血で血を洗う全面抗争へ…。県内最大の暴力団三代目旭琉会(翁長良宏会長)が二つに分裂した。以前からくすぷり続けていた会長派、理事長派(富永清理事長)の対立が、〔平成二年〕十三日の発砲事件により、再燃。理事長派が会長派から絶縁され、新組織「沖縄旭琉会」を結成。県内暴力団情勢は、一気に緊迫の度を増してきた。

さらに〔同年〕二十一日には会長派の丸長一家組員が、富永一家組員数人に暴行を受けて重傷を負うなど、一日で四件の発砲事件が発生した。両団体の勢力争いが、全面抗争へと向かう情勢に、県警では「三代目旭琉会対立抗争事件特別捜査本部」を設置し、三百人、二十四時間態勢で各事務所などの警戒を強化している。旭琉会誕生から分裂の経緯、過去の抗争事件、県警の対応などをリポートした。

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金城正雄さんの謎 – その2

(続き)今回は、長らくお待たせいたしましたが、ブログ主なりに解明した金城正雄さんの “実像” について言及します。

前回の記事で金城正雄さんの履歴について紹介しました。その中で “三代目旭琉会金星一家・金城正雄総長は、ごく初期のころから那覇派の首領・又吉世喜の舎弟分として那覇派の実務面を取り仕切ってきた(以下略)” と記載されてますが、那覇派の実務面とは何かを窺える記事を見つけましたので全文を紹介します。沖縄ヤクザネタ好きの読者のみなさん、是非ご参照ください。

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金城正雄さんの謎 – その1

今回は、二代目旭琉会で長らく事務総長を務めてきた金城正雄さんについて言及します。金城正雄さんて誰?と思われる読者もいらっしゃるかと思われますが、彼は那覇派時代は中堅幹部、そして又吉世喜の弟分として活躍し、昭和45年(1970)以降の旭琉会では長らく事務総長を務めるなど、組織にとって重要な人物であり続けました。

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昭和の沖縄社会とヤクザ

今回は、本来であれば5月15日に合わせて公開予定だった “沖縄ヤクザ関連” の史料をアップします。前回は復帰50周年の記念日のため、できる限りいい記事を選んで当ブログで紹介したわけですが、今回は “ガチ” な内容となります。

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日常生活には役に立たない沖縄ヤクザ・トリビア

今年は我が沖縄が本土に復帰して50周年の節目にあたります。それに関連して本土の組織暴力団(山口組)の沖縄進出について調べつつ、これまで蒐集したヤクザ関連の史料を整理したところ、興味深い事実を再発見することができました。

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