閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その6

明治8年(1875)5月29日の太政大臣三条実美名義での通達への対応について、当時の琉球藩庁の対日交渉はそれこそ「おバカ」の見本なので、当ブログでは反面教師の教材として可能な限り詳細に説明します。理由は当時の対日交渉の実態について、現在の沖縄県民(および他府県人)は全くといって知らないからです。おそらく「明治政府が力で無理やり琉球藩を処分した。かわいそう」ぐらいの感覚しか持ち合わせていないと思われます。

先のFacebook への投稿者もおそらく同じかと思われます。明治8年から12年の廃藩置県に至るまでの琉球藩の当局の交渉を鑑みると、とても「だから我々の御先祖は賢く外交、友好で国を栄えさせる道を選んだのだから」なんて主張ができなくなります。廃藩置県(琉球処分)に関しての現在の沖縄の歴史認識では否定的な意見が多いのですが、ブログ主はあえて肯定的に捉えています。極言すれば「こんなおバカな連中を社会の表舞台から退場させた明治政府GJ!」になりましょうか。

余談はそこまでにして、明治政府からの通達に対して琉球藩の国王および首脳たちがどのような交渉を行ったを考察すると、大雑把にいえば

・明治政府から全権委任の立場で派遣された松田道之(役職は内務省所属の官僚)と交渉。

・琉球藩としては「清国との関係断絶」は了承できない件を説明。それに対して松田との弁論が展開。(ここまでは問題なし)

・松田が琉球藩の主張を受け入れないと判断するや、上京して政府に嘆願したいと申し出。それに対して松田の怒りが爆発。琉球藩に対して最後通牒を突きつける。

・松田の強硬な態度にびびった国王および三司官が、明治政府の通達の受け入れを決断。遵奉書を内務省出張所の松田に届けようとした際に、首里城において反対派が国王の使者を取り囲んで大騒動に発展。(その後国王尚泰は、明治政府の通達受け入れを取り下げる)

・那覇でも騒動が発生、そこで松田が譲歩。藩の代表を上京させての嘆願の取次ぎを提案。ただし政府への嘆願が却下された場合は、東京で明治政府の通達を受諾することも合わせて提案。

・松田の提案に対して国王尚泰が了承して、池城親方を始め琉球藩の代表が上京。

・案の定、琉球政府の嘆願に対して明治政府は却下するも、琉球藩の代表は明治政府の通達の受託を拒否。(そんな王命を受けていないと主張)

・そこで松田の怒りが再び爆発、明治政府は琉球藩の嘆願は一切受付しない方針を固める

上記の経緯は喜舎場朝賢著の『琉球見聞録』からブログ主が纏めたものですが、ハッキリ言って最低・最悪の交渉をしていることが分かります。つまり

・明治政府の全権委任で来琉した松田道之のメンツを潰していること。

・二枚舌を使ったこと。

になります。その行動様式はまるで悪質のクレーマーと断言しても構わないほどみっともない有様で、明治政府側の交渉人である松田道之がこれまた極めて優秀な人材であることが、みっともなさに拍車を掛けています。喜舎場朝賢の『琉球見聞録』は廃藩置県時の琉球藩の状況を知る上で貴重な史料ですが、現代語訳が出版されない理由が何となくわかります。当時の琉球藩の当局の対応が余りにも酷すぎて公にできないからとしか考えられません。(続く)

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ここからは、松田が琉球藩庁に突きつけた最後通牒と、国王尚泰が松田および太政大臣三条実美宛に提出して嘆願書について、琉球見聞録から抜粋しますでのご参照ください。(旧漢字はブログ主にて訂正)

・8月6日松田大丞は藩王以下衆官朝命を遵奉せざるもとの決定し、左の書簡を贈る。

今般政府命令の事に付、拙者着藩以来政府の主意とせらるる所、即ち条理のある所を以て百方弁論を費すと雖も、貴下及び藩吏に於ては更に承諾せられずして、毎に不条理なる請願のみに付、拙者は之を聴許せず、此の上は遵奉せらるるか否らざる乎ニつの外他なきに至り、遂に一昨四日に於ては政府の命を奉じ委員たる拙者を擱き、直に政府に向て弁論せんことを主張して拙者を辱かしめ、即ち政府を辱かしめ、又彌遵奉なきに決するときは拙者は是非貴下に面して一言述ぶべき旨趣あって之を照会に及びたるに病の故を以て謝せらるるに依り遂に其病況を検査せしことを要したれば、又固く之を拒まれり。昨五日に於ては遵奉せざる旨を以て被出たる書面を閲すれば、文意曖昧他日督責を受くるに答ふる為遁辞を含蓄したるものにして、政府に於ては決して取る可らざる書面に付、拙者直に之を弁論して排斥したるに、靦面猶ほ悛めざる等の件々は朝命に応ぜず、即ち政府に反したる者と名状すべき也。依て拙者は貴下即ち反者に対する国法を以てし、当藩に対するに前途の処分を以てせらるべし。依て左の条件可被心得将に去に臨み一書如斯也。

一 貴下謝恩名代上京今帰仁王子並に刑律取調の為上京の官吏学事修業事情通知の為め上京の人員等出発の儀は当分差止候事

一 都て藩吏の上京は当分差止候事

一 当分の内当地人民他の管地に向て航海するときは毎時内務省出張所に届出べく藩吏は他の管地にあらずとも、都て当地の諸港を出る時は其所要並に其至るべき地方等詳らかに届出づべく様可致候事

・明治8年8月9日(旧8月10日)

内務大丞 松田道之殿

当藩支那との続五百年来の縁由有之信義之掛る所にて断ち絶候儀致是迄通被仰付度段々願申上候得共御採用無御座其儘御請仕候儀藩中人心の安ぜざる所候間藩吏之内人撰之上拙者之委任を與へて上京せしめ今一応政府へ申上其上御採用無御座候はば東京に於て直に御請可申候条此儀御依頼申上候也

琉球藩王 尚泰

・明治8年9月11日(旧8月11日)

太政大臣 三条実美殿

当藩支那との続五百年来の縁由有之信義之掛る所にて絶ち絶候儀難致是迄通被仰付度内務大丞松田道之へ段々願立候得共御採用無御座其儘御請仕候中人心之安ぜざる所に候間藩吏之内人選之上拙者之委任を與へて上京せしめ今一応政府へ申上其上御採用無御座候はば東京表に於て直に御請可申上趣を以て遂に松田大丞の許容を得今般池城親方差出與那原親方幸地親方喜屋武親雲上内間親雲上随行申付候条宜御頼申上候也

琉球藩王 尚泰