佐敷のヒャッハー考 – その2

(続き)ブログ主にしてはめずらしく15世紀の琉球をテーマにした “巴志” の考察記事を提供する際、以前から強調しているとおり史料をチェックする際に儒教のセンスを意図的に頭から取り除く、いわゆる “朱子学フィルター” を設定して読み解く方法を用いています。

今回はその理由の一つを紹介します。ためしに喜舎場朝賢著『東汀随筆』に掲載されていたお話を書き写しましたので読者の皆さん是非ご参照ください。

第二回第一 尚貞王御学問濫觴ノ事

我が国王昔より未だ曽て書を読み給はず。其の義にあり。其の一は王は人民の頭上に居て至尊至大神様同様に崇拝すべきものにして肯て教へ上るは御無礼至極なりと言ふにあり。其のニは国王は叡明の御性質教えずして自ら万事知り給ふべし。此上に学問を加へるときは人民其下に立つこと能はずと言ふにあり。尚貞王始めて僧侶頼慶なる者を徴して小学四書を読み給ふ。是国王書を読むの濫觴なりとす(中略)

おおまかに説明すると、琉球・沖縄の歴史において書(ここでは漢学を意味する)を読めるようになったのは尚貞王(即位:1669~1709)からであり、その理由についても言及しています。和文に関しては不明も、少なくとも尚貞以前の王は漢学の知識がなかったことが伺える記述です。

ちなみに琉球・沖縄の歴史において漢学の知識が導入されたのは、史料で確認できる限りでは1392年で察度(中山王)が明に留学生を派遣したのが始めてです。この件に関しては『球陽』の記述をご参照ください。

45 四十三年(1392年)、中山王及び山南王、各王子弟を遣はし、入監せしむ

王及び世子武寧、使を遣はして馬を貢せしむ。並びに従子日孜毎(にしみ)・濶八馬(うばま)・寨官の子仁悦慈(にやし)の三人を遣はし、監に入り読書せしむ(国人、監に入り業を肄ふこと此れよりして始まる)。山南王承察度、従子三五郎尾(さんぐるみ)及び寨官の子実他盧尾(したるみ)・賀段志(かにし)等の三人を遣はし、監に入り読書せしむ。

引用元:球陽研究会編『沖縄文化史料集成5 – 球陽読み下し文』角川書店 107㌻

そして同時期に大明から閩人たちが渡琉して、山北・中山・山南の権力者たちと明皇帝との窓口になります。巴志さん(と愉快な仲間たち)が “国を傷なふ蛆虫” 呼ばわりして中山武寧を放伐したのが1407年ですから、20年にも満たない短い期間で儒教のセンスが琉球社会に浸透したとはちょっと考えられません。

ちなみに儒教的センスは50年以上経過しても琉球社会に浸透していないとすら考えられるのです。尚思達王(在位:1445~1449)時代に起こった事件を紹介しますのでご参照ください。

昔、瀬長の按司という人がいたが、王の娘婿であった。その婦人は絶世の美女で大城按司が一目ぼれをした。大城按司は思いを遂げようと瀬長按司に近づき、遊びに誘い酒宴も設けて瀬長按司を泥酔させ、そのスキを狙って夫人を犯した。

この事件はついに尚思達王の知るところとなり、激怒した王は大城按司を呼び出した。按司は何も知らずに招集に応じ、王の居城に向かう途中、王が差し向けた精兵によって惨殺された(中略)

参考文献:琉球国由来記

王の娘(しかも人妻)を強姦した大城按司、そして取り調べや裁きなど行なわずにいきなり惨殺した尚思達王、どこに朱子学的なセンスがありますかとつっこみたい気分になります。閩人たちが渡琉して50年以上統治のお手伝いをしていたと仮定してもこの有様なのです

琉球の15世紀は極めて不安定な時代です。この時代は為政者において “制度” という観念が乏しく、したがって上記の尚思達王のように手続きをすっとばして直接行動におよぶハッキリいって無茶苦茶な時代です。つまり儒教で最も大切な “礼楽(制度の運用)” という概念が理解されていないのです。

『球陽』を参照すると巴志さんは人徳ある人物に描かれていますが、実際には14~15世紀の琉球社会の権力者たちには儒教的センスが浸透してなかった可能性が極めて高く、しかも文字の読み書きができたかもわからない巴志さんが仁・義・礼・智・信の徳性を持ち合わせていた人物であったとは思えないと結論つけて今回の記事を終えます。