”狙われたドン”(2)/ 多和田会長

県内の暴力団の中で、これまでにないほど、絶対的な力を誇示して来た二代目旭琉会多和田真山会長も、配下の組員の撃ち込んだ2発の銃弾にあっけなく倒れた。流血の抗争を繰り返して来たその歴史の中で、多和田会長自身も殺人を犯したが、やはり、穏やかな死は迎えられなかった。

30年前幹部を射殺 / 流血の抗争をくぐり抜ける

県警の資料によると、多和田会長は、昭和8年北中城村の生まれ。20歳前の昭和27年ごろから、旭琉会結成前のコザ派に属し、組織暴力団の世界に足を踏み入れた。36年には那覇派とコザ派の対立の際には那覇派に組し(注1)コザ派の幹部を射殺、頭角を現した。45年12月には那覇派とコザ派が合流、沖縄連合旭琉会が結成されたが、それに先立つ9月に仮出所した。当時の幹部に見込まれた多和田会長は、48年に那覇市内の栄町や寄宮一帯を縄張りにして、「多和田組」を作り、組長に納まった。

その後は、51年1月に旭琉会理事長に就任、12月には会長になるなど幸運な面もあり、速い出世ぶりだった。

若いころからの多和田会長を知る捜査員は「血の気が多い男で、腕っぷしも強かった。でっぷりと太った顔つきから鋭い目付きをされると、一般の人なら縮み上がった」と述べる。それは会長になってからも、その風姿にはすごみがあり、中堅の組員でも一喝されると、震え上がるほどの迫力だった、という。

殺人をはじめ、恐喝、傷害、犯人隠匿などで25年から53年までに逮捕歴10回を数える多和田会長も、組長になるまでは幾つかの派を渡り歩き、着実に地位を高めるなど、かなり世渡りの巧さを見せた。

会長就任後は、55年10月に一家総長制度を導入。これは、組やグループの統廃合を行ない、14の一家に整理して一家のトップは総長にするというもの。総長は一家をまとめ、本家に上納金を納めるという図式だ。これにより、多和田会長はピラミッド型社会の頂点に立ち、各一家を完全に支配できた。

多和田組結成当時から会長の取り調べに当ってきた捜査員は、「多和田は性格的にも攻撃的な男。部下を取りまとめる手腕もそれなりにあったが、あれだけの大組織をまとめるには、ある程度の恐怖政治も行っていたはずだ」と話す。会長に歯向かったタダではすまない” という意識をすみずみまで植え付け、多少の不平不満を抑え込んでしまうというやり方だ。

旭琉会は、本土暴力団の沖縄進出を阻止する目的で県内の暴力団が一致、結成された。しかし、結成10年も経過することからは、お互いの利益を侵害しないということを条件に山口組系をはじめ、関東稲川会とも友好関係を築き上げた。

このように、多和田会長は沖縄の暴力団をそれまでのグレン隊の集団から、本土風の現代やくざに衣替えを図って行った。そして、その進み具合も極めてうまい具合に進んでいるかに見えた。しかし、狭い沖縄では各一家の利害関係も複雑に絡み合い、準構成員まで含めると千人もいる組織の中では、人を殺すことを何とも思わないのも多い。多和田会長の死に様は、暴力団社会を象徴するものだ。(昭和57年10月12日付琉球新報13面)

(注1)この記述は誤りで、昭和37年7月29日の事件については下記リンクをご参照ください。

多和田真山さんの思い出

SNSでもご購読できます。