蔡温時代の人民 – 1952年1月1日付琉球新報より

今回は元日企画の一環として、昭和27年(1952年)元日の琉球新報の記事を紹介します。那覇市地区教育長の眞榮田義見さんが18世紀ごろの琉球王国の住民たちの生活について言及していますが、ハッキリ言って「グロ注意」の内容です。正月そうそうこんな話題もどうかと思いましたが、琉球王国の実態を把握する史料の一部として当ブログにて紹介します。

原文はすこし読みづらい部分がありましたので、ブログ主の現代語訳およびカッコ書きで西暦などを追加しました。あと原文で判読できない部分は●にて表記しました。ご了承ください。

蔡温時代の人民 – 眞榮田義見

正月休みの炉辺の話題になったらという積りで標題の事を旧稿の中から2,3を拾い集めて見る。

世界は人民に依ってのみ成立し発展して来たのに、人民は過去に於いて不当にしいたげられていた。人民が自由をかち得たのは近世になってからの事で、近世史は庶民と封建勢力との血の闘争を示している。

沖縄の歴史も支配者の政●史、支配の歴史は今までに教えられて来た。その人民はどういう生活をしていたか。沖縄史の第二黄金時代とも言われる尚敬王代の事実を「球陽」から拾って見る。

尚敬王時代は蔡温、名護聖人程順則、初めて劇作をした玉城朝薫、民衆詩人恩納ナベ、一大の風雲児平敷屋朝敏等の偉材が沢山出て文化の高い時代と言われている。

封建時代の貴族は何れの時代にも人民の搾取の上に栄華の限りをつくしていた。

その高い文化は人民の汗の結晶であるという言い方は当らないかもしれないが、人民の貢賦の上に文化を作るすべての条件が作られた事を考えるとそう見てもいいのである。沖縄の黄金時代と言われる尚敬王時代の人民にもまたそういう事はたしかに言われるのである。

尚敬王即位元年(1713年)の夏に(尚敬の即位は12月24日)国師蔡温に対して、毎日禁城(首里城)に参内するのに道が遠く寒暑いの来往最も困るだろうというので、特に家宅を首里西の平等の赤平村に賜っている。蔡温は47才(1728年)にして三司官に任ぜられ、ここに名君賢相(が)相遇する政治が始まるわけである。

尚敬王元年(1713年)の事

中城間切伊舎堂(いしゃどう)の和仁屋親雲上(わにや・ぺーちん)は康熙己丑(つちのとうし)の年の(1709年)大飢饉があった時に米を出して人民の〔飢〕餓を救ったが、今年もまた米を出して十(の)村の〔飢〕餓を救った。十村とは伊舎堂、添石、屋宜、当間、新垣、津波、泊、久場、熱田、和仁屋である。

福地村比嘉がしばしば米を出して餓死を救い、座喜味村上地が又しばしば餓死者を救って座敷位及び御掛物一幅を賜っているし、今帰仁郡岸本村湧川が餓死者を救っているし、それが”しばしば”という形容が使ってあるからには凶作餓死が度々あって、それは死に隣合す様なみじめなものであったが、政府(琉球王府)は何等手を打った所は見えない。

蔡温が政治を取ってからの備蓄貯蓄の倉が中央にも地方にも奨励されたようではあるが、この記録では人民に取って凶作は餓死であったと取ってもいいのである。

次に土地の肥饒の所はなお悲惨だった話。

尚敬王の16年(1729年)、東風平村は田が大変肥えていたので貢賦が余計課された。そのために人民は負担が重く疲弊して、貢賦を全く納めることが出来ないようになった。康熙年間の壬寅(みずのえとら)の年(1722年)に凶作の飢饉がやって来た。又そのために貢賦が愈々(いよいよ)納めることが出来ない様になって累計950石余りの滞納となった。そこで政府(王府)は総地頭間に命じて農業を監督せしめた。総地頭は富盛村の比嘉筑登之(ちくどん)、東風平村の浦崎筑登之、宜寿次村の賀数筑登之、山川村の赤嶺仁也(にーやー)を以て耕作総頭となし、名城村の新垣筑登之、伊覇村の金城、外間村の金城、志多伯の金城、友寄村の知念、当銘村の金城を耕作当となし、以て夫地頭(ふじとう)神谷筑登之を助けて各々心力を盡して百姓を督励したので、それから5年ならないうちにその滞納を完納することが出来て褒美を賜った。

今の東風平村の人口から200年前の人口を推算すると僅少の人口だったと思われる。それに滞納が900石余り、しかも収穫督励官まで任命して5か年がかりでこれを納めたのである。

この間人民は朝に星を被(かず)いで耕作し、夕にまた星を戴(いだ)いて帰って牛馬の様に働いたことが想像される。人民の悲惨さが分るわけである。

こんな話は大分ある様だが紙面の関係で人身売買の話。

泉崎村の赤崎林盛は林実の次男である。家が貧乏でき告〔原文ママ〕する所がなく、遂に林盛を富名腰村糸数家に売って以て生活の資となした。時に林盛は10才、百姓に落とされたのでもう氏の家譜にも乗らないとあるが、百姓に売られ士族から落とされたみじめな話である。

尚敬王31年(1744年)、高嶺間切松米次は9才の時父が貢賦を納めることが出来なかった。そこで家産のありったけを売ったがなお足りなかったので、父子共々に身売りをした。しかし子供の松(米次)は超人的な働きをして母及び妹を助けて身売りをさせないようにして、遂には父を買い戻し、自分をも買い戻したとある。がこんな超人的働きをし得なかった一家離散の悲劇はいくらもあった筈である。しかもそれは税を出す、ただ税を出すためだったのである。

奥武村の大城筑登之という者は8才にして父に死なれ、14才に母に売られ、我謝村の平良掟親雲上、西原村の城間掟親雲上、伊舎堂村の島袋等々の例が相当出て来るが、この記録に現れたのは氷山の一角で記録に取上げられなかった人身売買一家離散はいくらあったかも分らないのである。

尚敬王の6年(1719年)に諸間切の百姓が首里、那覇、泊、久米村の民転を禁じたとある。イナカヤンバラーの語が残っている通り、首里、那覇、泊、久米はその地域に居るというだけで尊敬されるという特権があったことが想像される。

(尚敬王の)13年には百姓が士族を偽り称することを厳禁している。この禁令が出るからには、士族を詐称する者が相当居たことを示すし、そのことは士族の特権が如何に大きかったかが分るのである。この都市偏重や支配階級としての士族を尊重したことは田舎の人が手工芸をすることを禁ずることで甚しかったと言える。

それは尚敬16年(1729年)。

諸郡の村人がその特技に依って畳匠、皮匠、鼓匠、●匠、鞍●匠、●●匠、鉄匠、●匠、馬鞍匠、●糸匠、●●匠、彫物匠、玉●匠、等になったらその特技で公用を弁じて各人の丁●を免ぜられていたが本年(1729年)になって山原田舎の人がこういう技術者になることを厳禁して、ただ首里、那覇久米の人だけが常にこの技術で公用を弁ずるようにしたのである。これは首里那覇の生産がなく、首里那覇住民の生活擁護のためだったかも知れないが、それにしてもこういう工芸的なものは田舎の百姓は自家用的需要のために造る以外には全く水呑百姓の農奴的存在が認められていたのではないかと思われる。

尚敬王3年(1716年)に首里の安里が提燈と雨傘を作っているが、こんな幼稚な手工芸品がやっとこの年に出来たとなると表面の文化は高くなっていたが、人民一般の文化程度が想像される。

以上ごく一部の資料ではあるが何とか当時の人民の状態を推測する材料にでもと思って物したわけである。(那覇市地区教育長)

【関連リンク】蔡溫時代の人民 – 眞榮田義見(原文書き写し)

 

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