今月6日の沖縄タイムスに掲載された〈大弦小弦〉の内容がちょっと香ばしかったので、当ブログにて紹介します。説明不要かと思いますが、10月23日にトルコ政府に保護された安田純平さんに対する(ネット上における)バッシングに対して苦言を呈する内容です。一見もっともなご意見にも思えますが、ブログ主は「何か違うのでは」という違和感を拭い去ることができません。全文を書き写しましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。
第一回県費留学生の謎
今回は明治15年(1882年)の第一回県費留学生の気になる点について言及します。『太田朝敷選集〈下巻〉』に年譜が掲載されていますが、その中で同年12月4日、上京した留学生たちが明治天皇に拝謁したとの記載記載がありました。詳細は下図をご参照ください。
*第一回県費留学生:1882年(明治15)年、沖縄から県費で東京へ留学した謝花昇、岸本賀昌、太田朝敷、高嶺朝教、今帰仁朝蕃(中途で帰郷、山口全述に代わる)ら5名のこと。学習院から農科大学や高等師範、慶応大などで学ぶ。
ツッコミを入れたい記事を二つほど紹介するよ
今回はアメリカ世の時代(1945~1972)における事件・事故の記事を2つ紹介します。沖縄タイムス社が編纂した『沖縄年鑑』からの引用ですが、ちょっとツッコミを入れたい気分になった内容です。読者のみなさん是非ご参照ください。
あるお方のマスコミデビューと思われる記事を見つけたお話
ブログ主はここ数日にわたってこれまで蒐集した史料をチェックしたところ、実に気になる新聞記事を見つけました。昭和49年(1974年)9月23日付の琉球新報において組織暴力団「沖縄連合旭琉会」に関する記事が掲載されていましたが、その中に ”富永清” の名前を見つけました。これはもしかして彼の名が初めて県内2紙に登場した記念すべき記事の可能性があり、今回当ブログにて掲載します。ヤクザネタ好きな読者の皆さん、是非ご参照下さい。
クシャミ発言は問題にするに足らず
最近ブログ主は10月14日の沖縄タイムスの記事に触発されて、尊敬する太田朝敷先生の史料を複数入手および当ブログにて一部掲載しました。同コラム執筆者の伊佐眞一さんは「それでも彼を語るときに、真っ先に出てくるのは、たぶん「クシャミ発言」でしょうか。クシャミまでヤマトゥンチューの真似をしろ、と高等女学校の開校式典で言ったものですから、のちのちまで多方面に拡がり、戦後の太田さんを一躍悪名高くした言説です(下略)。」と記載しておりますが、たしかに現代の沖縄では太田先生イコール「クシャミ発言」というレッテルが独り歩きしている感があります。
恩知らず考
すでに当ブログに取り上げた案件ですが、伊波普猷先生の『古琉球』の論説 – 沖縄人の最大欠点 – についてブログ主が調子に乗って言及します。
ちなみにこの論説が『沖縄新聞』掲載されたのは明治42年(1909)2月21日であることを考慮の上で下記引用をご参照ください。
女子教育と本縣 – その2
今回は明治33年7月5日付琉球新報2面に掲載された『女子教育と本県』の後半部を掲載します。太田朝敷先生のイメージを悪くした「クシャミ発言」はこの中に記載されていますが、演説全文を通してみますとそこまで大騒ぎする発言ではありません。「沖縄は差別されている」という観念をいったん頭に中から意識的に取り除いて通読することをお勧めします。後半部も前半と同様に現代文への翻訳と原文を併記しています。
興南高校はセンバツへ出場できるか
今月20日から25日まで開催された第143回九州地区高等学校野球大会(熊本県)において、我が沖縄代表の沖縄水産高校は1回戦で長崎商業に8-4で、興南高校も準々決勝で優勝した筑陽学園に延長13回(タイブレーク)1-0で惜しくも負けてしまいました。沖縄水産に関してはセンバツ出場が絶望的ですが、興南に関しては筑陽学園が優勝したことで少しではありますがセンバツ出場の可能性が出てきました。今回はその可能性について言及しますので、野球好きの読者の皆さん是非ご参照ください。
我が沖縄県の学力低下の原因を歴史的に考察してみた
今回はちょっと真面目に我が沖縄県の学力低下の原因を歴史的に考察します。正直なところ現在のブログ主のレベルでは手にあまるテーマではありますが、歴史的にさかのぼって考察すると面白い仮説ができあがりましたので、この場を借りて紹介します。拙文ではありますが読者の皆さん是非ご参照ください。
その前に琉球藩時代の士族における学問の目的について言及します。明治8年(1875年)に来琉した河原田盛美(かわらだ・もりはる)氏の『琉球紀行』より、那覇士族の実態について言及している箇所を抜粋します。
女子教育と本縣 – その1
今回は明治33(1900)年7月1日、沖縄高等女学校開校式における太田朝敷先生の演説『女子教育と本県』の全文を掲載します。正確には同年7月3日の琉球新報に掲載された前半部と、7月5日に掲載された後半部に分けています。琉球新報の原文は旧漢字かつ句読点がついていないため、試みにブログ主にて訂正した部分と、原文書き写しをアップしました。太田先生を語るうえで必ずと言っていいほど出てくる「クシャミ発言」は後半部にあります。まずは前半部をご参照ください。
平成30(2018)年10月14日、沖縄タイムス29面
平成30年(2018)年10月14日の沖縄タイムスに掲載されていた太田朝敷関連のコラムを掲載します。著者の伊佐眞一さんは『太田朝敷選集』の編集者でもあり、それ故に当コラムも実に読み応えのある内容となっています。沖縄タイムス購読者が好みそうな内容でまとめ、なおかつ太田先生の経歴を上手に紹介しているあたりはさすがの一言でブログ主も大変参考になりました。全文を書き写しましたので、読者の皆さん是非ご参照ください。
津田大介さんに送りたい言葉
今月14日の沖縄タイムス社会面(30)に『デマの訂正が必要』と題した記事が掲載されていました。内容は先の県知事選におけるネット上の誤情報に対する会合が開かれ、ジャーナリストの津田大介さんが講演したとのこと。さっそくですが該当記事の全文を抜粋しましたので、読者の皆さんぜひご参照ください。
山川穂高選手の思い出
今月14日の沖縄タイムス1面に『山川47号 本塁打王』との大見出しで、西武ライオンズの山川穂高選手が県勢初のパリーグ本塁打王を獲得したニュースが掲載されました。実はブログ主は山川選手が出場した高校時代の公式戦を数試合観戦した影響で、彼には強い思い入れがあります。ブログ主が一番印象に残っている試合は2009年7月19日の選手権大会準決勝沖縄水産戦で、この試合の8回裏に彼はブログ主が今まで見たこともないものすごいホームランを打ちます。その思い出を語る前に14日の沖縄タイムススポーツ欄に掲載された山川選手に関する談話をご参照ください。
勤労意識の違いについての考察
明治の時代に来沖した他府県人の手記を確認すると、必ずと言っていいほど男逸女労(だんいつじょろう)、あるいは遊手徒食(ゆうしゅとしょく)の表現を見かけます。男逸女労とは文字通り”男は働かず女が働いて食わせてもらう”の意味ですが、太田朝敷先生は『沖縄県政五十年』において「それはあらぬ誤解である」と憤慨しています。確かに太田先生のご指摘どおりこの件は誤解に基づく風評被害の一面がありますが、他方当時の士族たちに勤労意欲が欠けていたことは否定できません。試しに下記引用をご参照ください。
中世的意識のままのソ連労働者
今回は、沖縄の歴史とは直接関係はないのですが、小室直樹著『ソビエト帝国の崩壊』(光文社)の一節を紹介します。同著第1章第3節「中世意識のままのソ連労働者」(51~59㌻)からの抜粋ですが、資本主義社会とそれ以前の社会における労働者の意識の違いを分りやすく説明しています。我が沖縄における廃藩置県以前の労働者の行動様式を理解するうえでのもっとも参考になる一節ですので、読者のみなさん是非ご参照ください(文章のなかに現代にはなじまない表現が一部ありますが、今回は訂正せずに原文をそのまま書き写しました)。












