琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その4

前回まで琉球王国時代(あるいは琉球藩の時代)には女性は文字の読み書きができなかった件を記述しました。正確に言うと「史実で文字が読める女性を確認できない」のですが、もしかすると文字が読めたかもしれない女性の階層が2つあります。

まず考えらるのが地方の神女(ノロ)たちです。彼女らは琉球王府から正式に辞令を受けて初めて神女としての任務を全うできたのですが、その辞令書は和文で記載されていました。琉球王府時代に交付された辞令書は高良倉吉先生が精力的に調査していますので、その著書「琉球王国」より当時の辞令書を抜粋します。

続きを読む

琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その3

前回は都市部の士族たちの教育システムや講義内容について記載しました。では人口の多数を占める農村部はどのような教育事情だったのでしょうか。

琉球王国時代は士族は都市に、百姓は農村に住むよう規制されていました。学問は士族の特権で百姓たちは教育をうける機会が全くと言っていいほどありませんでした。例外は以前の記事で紹介した奉公人の階級です(琉球藩の時代 その18参照)。

続きを読む

琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その2

琉球王国時代の教育制度は19世紀に完成します。教育機関は都市部である首里と那覇に設置*されていました。入学資格があるのは士族のみ(那覇や首里にも少数ながら町百姓が住んでいました)で、入学時期は7歳からです。

*首里と那覇(あるいは久米)では進学ルートが違いますが、入学の時期と受講内容はほぼ同じです。 

最初に入学する村学校(現在の小学校に相当)では主に漢学を受講します。1875年(明治8)12月に河原田盛美氏がその著書「琉球紀行」で那覇市内の4つの学校(西村、東村、若狭町、和泉崎)を視察した件が記載されていますので、一部紹介します。

続きを読む

琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その1

過去のブログを総点検している際に、現在連載している「誤解だらけの琉球藩の時代」の前の「琉球・沖縄の歴史の個人的な謎」で近代にいたるまで女性が文字を読めなかった件を記事にアップしていないことに気が付きました。琉球藩の時代で当時の政治・社会情勢についてある程度詳しく記載しましたので、ここで琉球王国時代に女性が文字を読めなかった件をアップします。この記事は是非女性の読者に読んでいただきたいです。

1872年(明治5)に琉球王朝が琉球藩に鞍替えした際に、現在の那覇市西町に設置されていた(旧薩摩藩の)在番奉行所を明治政府は外務省出張所として利用します。そして政府側から伊地知貞馨、奈良原幸五郎をはじめ役人を派遣して琉球藩庁の為政者たちとの折衝を行います。

その時来琉した知識人で農学者の河原田盛美氏(1842~1914)が当時の琉球社会の様子を記述した著書を刊行しています。その著書「琉球紀行」のなかに「琉地曾て女子に学問を為さしめず。その蕃たる大甚し」との記載があります。河原田氏が来琉したのは1875年(明治8)ですから、当時の琉球藩内の女性は文字が読めなかったことになります。

続きを読む

琉球藩の時代 その18

琉球王国の時代は間切や村を領有する王子家・地頭階級は首里に居住し、士族の大半を占める無禄士族は首里、那覇、久米、泊に居住していました。彼らは直接農村に出向くことがなかったので奉公人は琉球王府の地方行政にとって欠かせない存在でした。

琉球・沖縄の歴史上で奉公人の教育を受けた著名人は謝花昇(1865~1908)*です。彼は13歳の時に奉公人として採用され、東風平間切内の按司地頭御殿に勤務します。彼のように農村の優秀な子弟を10代前半で選抜して村内(あるいは首里)で教育を施すのが一般的でした。奉公人は租税の軽減など様々な特権を有していましたが、最大の特徴は文字の読み書きができたことです。

*謝花昇の伝記は数多く発刊されていますが、幼少期に奉公人として採用されたエピソードを記載していない伝記は信用してはいけません。 

続きを読む

琉球藩の時代 その17

~琉球藩当時の社会構造 その

ここまで延々と琉球王府(あるいは琉球藩庁)の為政者たちのクズエピソードを記述しました。改めて読み返してみると当時の為政者たちは「清々しいほどクズ」というか「ぐう畜」というか、どこに出しても恥ずかしくない鬼畜かつ堕落した連中であることには間違いありません。

続きを読む

琉球藩の時代 その16

1872年(明治5)に琉球藩に移行した際に真っ先に問題になったのは薩摩藩関連の業務に師事する士族の失業問題です。在番奉行所(大和仮屋)*が明治政府の外務省出張所に鞍替えしたために在番奉行所に勤める士族たちが全員失業する羽目になったのです。

*在番奉行所:1628年(寛永5)現在の那覇市西町に設立された薩摩藩の出張所。 

琉球藩庁としても見過ごすことのできない問題のために、当時明治政府より琉球藩に派遣されていた伊地知貞馨、奈良原幸五郎と協議して上級士族たちの知行を減額してその差額分を失業した士族の救済に充てことで了承を得ます。その際に減税分で発生した差額分も失業した士族救済に使われたことは十分に考えられます。

続きを読む

琉球藩の時代 その15

~クズエピソードその3  琉球藩当初に実施された減税策~

1872年(明治5)に琉球王国は琉球藩に鞍替えします。以前に記事にしましたが、その際に明治政府から琉球藩に対してプレゼントがありました。その内容を再度記述しますが

1.琉球国の薩摩藩に対する債務を帳消しにする。

2.明治政府に納める貢租は2割減の8200石に設定する

3.しかも代金納で構わない。大阪の米相場に於いて10月から12月の米の市場価格の平均値を算出して8200石分を代金納で収めること。

の3点です。この措置は「慶長以来薩藩の管領に置かれ、その賦税で相当に苦しんで来たため、国民は疲弊している」という琉球王府側の主張に対して明治政府が配慮した結果です。

当然琉球王府側は諸手を挙げて大歓迎します。プラスアルファで明治天皇より3万円の下賜あり、清国との交流も従来通りなので、王府側にとっては願ってもない事態になったのです。そのときの浮かれた気分を反映した和歌が

いにしえの人にまさりて嬉しきは この大御代に逢えるなりけり

ただしこの大御代はもちろん琉球藩庁の都合のいいようにはなりません。後に地獄を見る羽目になったのですが、今回は減税に対する琉球藩の処置について記述します。

続きを読む