これまで当運営ブログでアップした “おクスリ” 関連の記事に関して、読者の便宜を図るべく、まとめページを作成しました。アメリカ世時代の矛盾、そして復帰前後のポップ・アートの暗部を象徴する事例として、ブログ主が見つけ出した史料を不定期にアップしていきます。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – マヤー回(その2)
(続き)やっぱり、夜でも砂辺の海岸にはアベックがたくさんいましたよ。三時ごろに、私たちはその中を懐中電灯を持って歩きながら、「エー(なあ)猫でもさ、魚を三枚におろすさ、あれと同じみたいなもんじゃないか」といったら、「皮がついてる。キー・ブター・シ、カー・チャー・スガ(毛だらけだのに、皮はどうするわけ)」といわれたんです。それで「皮な。皮は焼いたら」とかいうと、また「違うさ。あれは、鶏でもなんでも焼くのは、焼きブタとかじゃないか、毛を取るとかああいうの」というのもいるんです。
我が沖縄が “独立” できない理由
ここ数日、ツイッターをチェックしていたところ、ブログ主の目を引いた投稿がありました。名護市議として活動中の” りうきう人” さんのつぶやきですが、極めて興味深い点についうっかり気が付きましたので、備忘録として当ブログにてまとめてみました。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – マヤー回(その1)
□マヤーの肉 昔、私たちが借りているライブハウスの家主の奥さんが「カッちゃん、馬肉とか、牛肉、豚肉たくさんあるけど、うちのお父さんがね、内臓(腎臓の病気)には猫の肉が効くっていうから。那覇の市場に行っても猫の肉は売ってないのよ」といいだしたんです。それで私は「何、猫食べるわけ」と聞くと、奥さんに「あのね、どこにも売っていないから、あんたなんか鶏も蛇も食べるさね、だからあんたなんかだったら猫も料理して持ってくるんじゃない」といって頼まれてしまったわけです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その11
(続き)でも私は「アッハー・ワカタン、イッター・シーカタ・ワカタン。ワッター・ガ・オーン・ディ・イレー・カラ、イッターヤ・ウヌ・バンドー・ウリサーニ・シムン・ドー・ンディ(わかった、あんたたちのやり方はわかった。俺たちがいいよっていったら、あんたたちはこのバンドはこれでいいってよ、というんだな)。ああ、イッター・ワカタン、ナー・ダメ・ヤッサー・ウレー(あんたたちのはわかった、もうこれもだめだね)」といって、といって、彼らがバンドから了解を得たからといって給料の上にプラス三〇ドル・ンディ・イーネー(といえば)、バンドもOK出しているからオーナーに対して強くいえるので、断ったんです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その10
(続き)今度はまた、中堅幹部が「エー・イッター仕事ヤ・何時にウワイ・ガ、ワン・マッチョー・チュク・トゥ・ヤー、ウマン・カイ、玄関ンジ。ヒンガ・サン・ドー、チュウ・ヤ(おい、お前たち仕事は何時に終わるのか。俺は玄関でまっているからな、今日は逃がさないからな)」と店まで来て脅かすんです。
琉球譯讃美歌の考察
前回紹介した「琉球語讃美歌 – 降誕(111)」について、明治41(1908)年12月25付琉球新報1面に発表された原文、および大正4(1915)年の「琉球語讃美歌及箴言」の初版に掲載された同歌をチェックしたところ、前回の記事で紹介したブログ主の意訳に一部誤りがあることが確認できたので、今回改めて考察記事を纏めてみました。
大正時代のうちなーぐちと “しまくぅとぅバカ”
先日アップした記事、「俺が調子に乗って “しまくぅとば” が普及しない理由を見つけた結果」に絡んで、ここ数日ブログ主は所蔵の琉球語関連の史料をチェックしてみたところ、興味深い一節を見つけましたので紹介します。
それは昭和41(1966)年9月に発行された、新垣信一訳「琉球語讃美歌(第五版)」の中の「第六番 降誕(111)」で、訳者は伊波普猷先生、つまり大正時代に使用されていた “うちなーぐち” が掲載されているのです。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その9
□ヤクザとの対立 私はバンド活動を、学生のころのように調子にのってやっていましたから、あのころの暴力団から縄張り代を請求されたこともありました。だから、私は中部病院にも運ばれましたよ。私は高校のときにも上級生から目をつけられましたけども、社会に出てもそんなことがあるんだなと思いました。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その8
□死体洗い その時のバンドのメンバーは、沖縄で一番キャラクターが強い奴ばかり集めて組んでいたわけですが、性格が合わずに一人抜け、二人抜けして、入れ替わりが激しかったんです。そのメンバーから抜けた奴の一人でヒコー(嘉手刈武彦さん)がいましたが、彼は陸軍病院の死体の浮かぶプールでベトナムから送られた顔や内臓のない死体を洗っていたんです。
【定期】俺が調子に乗ってりうきうの観光地&宿泊施設の実地調査を行った結果
今月8日から、新型コロナウィルス感染症が5類に移行されました。これによって、我が沖縄でも1日でも早く経済が再び活性化することを願いつつ、本日ブログ主は、歴史的ではない建造物と民間の観光地の実地調査を行ないました。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その7
□ベトナム戦争時代のバンド契約 ベトナム戦争時代〔昭和50(1975)年4月まで〕のバンド契約は、一九六六年か六七(昭和四一か四二)年ぐらいで私たちのバンドは月に二〇〇〇ドルでした。そのころ、だいたい良いバンドで二〇〇〇ドルから三〇〇〇ドル、普通のバンドで一二〇〇から一五〇〇ドルぐらいでした。この一五〇〇ドルを四人で分けたとしても、そのころの銀行員の給料が月に一〇〇ドル近くになっているから、四倍ぐらい貰っていることになります。
俺が調子に乗って “しまくぅとば” が普及しない理由を見つけた結果
今月4日のQAB琉球朝日放送のネットニュース “「しまくとぅば普及推進室」沖縄県庁に新設で看板設置「聞く・話す機会を創出しよう」” によると、沖縄県庁内に「しまくとぅば」の保存・普及に向けて県庁内に専任の部署が新設されました。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その6
□夏休みのバンド活動 PTAと先生方と生徒が一緒になってのものでしたが、コザ小学校で謝恩会というのがあって、そのとき私たち、そこで演奏をやってしまったわけです。
すると、みんな口を開けて見ていて、もう先生方も生徒もヌーガ・キーガ・ワカラン(何が何やらわからない)という感じでしたが、そのときの反応はというと、音はエレキギターですから、ベース、ドラム、ギターでうるさいんだけど、私たちは清潔にはしていたんで、面白くもないし、そうかといって無視はできないしという感じでした。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その5
□勉とのつき合い (外間)勉とは家が近いので「こういう音楽もあるよ」と、レコードのやりとりをする仲でした。
私たちの高校時代に、瑞慶覧基地(北中城村)や嘉手納基地とかでゴーゴーダンスコンテストがありました。今でいえばパレットくもじ(デパート)なんかで高校生が踊ったり、ディスコでひっくり返ったりして踊っているものと同じです。これを高校三年のときに、私と外間勉の二人でずっとあちこち荒らしまわっていたんです。勉はおしゃれな踊りが上手かったけれど、私の場合はどちらかというとクセのある踊り方でした。
馬汁は美味いというお話
本日(3日)、ブログ主は朝早くから沖縄県立図書館に出向いて、カッちゃんこと故川満勝弘さんに関わる新聞史料をチェックしてきました。その際に、ついうっかり沖縄ヤクザ関連の新ネタも見つけてしまったわけですが、それらの史料は One Note に写本&チェックしたのち当ブログにて公開予定です。
それは置いといて、今回は図書館帰りに那覇市辻で「馬汁」を完食したお話を紹介しますので、B級グルメ好きな読者のみなさん、是非ご参照ください。