この度、ブログ主は50年ほど前の新聞史料を整理・収集している際に、極めて興味を覚えた記事を見つけましたので、当ブログにて全文を公開します。ただし、現代の沖縄県民には理解しにくい部分もあるかと思われるため、ブログ主なりに解説したまとめ記事も作成しました。
婦人の見た中国 ① 婦人の地位
お隣の中国との交流が年々盛んになっています。沖縄県の各界各層をもうらした「第三次訪中団(比嘉佑直団長)がこのほど帰国しました。
今年は「国際婦人年」とあってメンバーの半数は婦人にしてほしいとの中国側の要望で、婦連、県労協婦人部、日本婦人会議の代表はじめ、大学講師、舞踏家など九人の婦人代表が参加しました。働く婦人の代表として参加した県労協婦人部長の垣花静枝さんに、婦人の目で見た最近の中国について報告してもらいましょう。
昭和のセンス
今回は沖縄ヤクザに関連して、昭和の新聞記者のセンスが伺える記事を1つ紹介します。以前、当ブログでも紹介した昭和50年(1975)2月に起きた「楚洲事件」に絡む続報ですが、現代ではとても思いつかない「題字」が極めて印象的なので全文を書き写しました。
昭和のたくましいおばーたち – 偉人編
前に紹介した、復帰後の国際通りの夜店で働く女性の記事が思いのほか好評を得ましたので、今回も調子に乗って昭和のたくましいオバーの記事を紹介します。昭和49年10月6日付琉球新報朝刊に、ある老人ホームの嘱託医の記事が掲載されていましたが、何とその医者の名は千原繁子さん(1898~1990)。ご存じの方もいらっしゃるかと思われますが、我が沖縄の歴史における初の「女医」として知られる偉人中の偉人です。
昭和のたくましいおばーたち(1)
今年は我が沖縄が本土復帰して52年目になりますが、ブログ主は試しに復帰後の沖縄社会の史料、特に新聞記事を重点的にチェックしてみたところ、非常に興味深い高齢者に関する記事を見つけました。
富永清さんと回状
今回は、ひさびさに沖縄ヤクザ関連の記事をアップします。実は、昭和49年(1974)10月、全琉を震撼させた「旭琉会理事長射殺事件」に関連する新聞史料をチェックしていたところ、ついうっかり気になる小記事を見つけてしまいました。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その32
(続き)例えば、私たちのおじいちゃん、おばあちゃんの、そのまたおじいちゃん、おばあちゃんたちが味噌汁を食べてたという歴史があって、朝はパン食にするにしても、どうしてもゴーヤーチャンプルー(ニガウリの炒めもの)というものが沖縄にある、食べたことないけどあるんだというのはわかるわけです。こういう味噌汁の余韻というのがあるわけです。おかず、漬物というのがまだ残っているわけです。
1日遅れのゴーヤーの日
5月8日はご存じの通り「ゴーヤーの日」ということで、沖縄の大型店舗やショッピングモールではゴーヤーにちなんだイベントや販売が行なわれていました。あいにくブログ主は多忙な一日を過ごさざるを得なかった事情もあって、イベント等に参加できなかったのですが、翌9日にりうぼうへ買い物に出かけたところ、じわじわくる商品を発見しました。
ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その31
□音楽の現状とルーツ こういうアメリカの若者を相手にしているから、ロックをやっていると、アメリカでは音楽のどこを大事にしているということがすぐダイレクトに伝わるし、そういう基本的なものがわかってくると、こことこことここの三つを大事にすればだいたいのものは、あとは時間が経てばマスターできるものだというのがわかるんです。これを見失って枝葉だけのものを仕上げていっても、アメリカでは通用しないというのが実状です。
時代遅れになった “愛国保守”
先月28日に投開票が行われ、そしていろいろと物議を醸した「令和06年度衆議院東京15区補欠選挙」はご存じのとおり酒井菜摘候補(立憲民主党)が大差をつけて初めての当選を果たしました。
尚泰候の決断 – 番外編
これまで「尚泰候の決断」と題して、真面目な歴史記事を4回に分けて配信しましたが、今回は番外編としてりうきうの王家・王族、そして上級士族の一大特徴である “二重思考” について言及します。
尚泰候の決断 その4
(続き)前回までに尚泰候の藩王時代の騒動についてやや詳しく説明しましたが、その出来事によって彼が決断できない “為政者” に成り下がった件を理解いただいた上で、明治29年(1896)の “決断” にいたった背景についてブログ主なりに言及します。
新境地
先月、当ブログにてセニョール・ターコのタコライスを紹介しましたが、マヨネーズが投入されたタコライスが“しに美味かった” ので、今回は別店舗のタコライスで試してみようと思いつき、我が宜野湾のキングタコス長田店のタコライス(チーズ野菜)をテイクアウトしてきました。
尚泰候の決断 その3
(続き)明治8年(1875)年9月7日(新暦)、明治政府、とくに来琉した松田道之との交渉過程で「事ここに至っては」の状況であると判断した藩王尚泰は、三司官に対し明治政府からの「御達書」を遵奉する旨を伝え、三司官側からも特に反対意見がなかったため、那覇へ使者を遣わす手はずを整えるよう命じます。
この日の騒動については「琉球見聞録」と「尚泰候実録」では一部記述が異なる部分はありますが、ブログ主なりにまとめてみると、
尚泰候の決断 その2
(続き)今回は尚泰候の決断について、予備知識として藩王時代の明治8年(1875)9月(新暦)の騒動について言及します。彼は有事の際に断固たる判断ができない為政者のイメージが強いのですが、実は例外的に “決断” を下したが故に酷い目に遭いかけた痛い過去があるのです。
その後の藩王は廃藩置県の明治12年(1879)まで毛利敬親の如く “そうせい候” の状態になってしまいますが、ブログ主はそれ故に明治29年(1896)の「断固たる決断」には強い違和感を覚えるのです。