今回は、当運営ブログの趣旨に少し反するかもしれませんが、ブログ主個人の経験から、我が沖縄がなぜ日本に復帰したかについて言及します。
昭和の世代には経験あるかもしれませんが、戦前を生きたオジー・オバーたちに「沖縄はなぜ日本に復帰したの?」と聞くと「沖縄は日本だからさー」と回答されたことありませんか。そして「沖縄戦であんなに酷い目にあったにもかかわらず、なぜ沖縄は日本に復帰したのさ?」と聞くと、困った表情をしながら「沖縄は日本だからさー」と答えます。
今回は、当運営ブログの趣旨に少し反するかもしれませんが、ブログ主個人の経験から、我が沖縄がなぜ日本に復帰したかについて言及します。
昭和の世代には経験あるかもしれませんが、戦前を生きたオジー・オバーたちに「沖縄はなぜ日本に復帰したの?」と聞くと「沖縄は日本だからさー」と回答されたことありませんか。そして「沖縄戦であんなに酷い目にあったにもかかわらず、なぜ沖縄は日本に復帰したのさ?」と聞くと、困った表情をしながら「沖縄は日本だからさー」と答えます。
昭和40年(1965)4月16日深夜、勝連松島料亭街で発生した殺人事件に絡んで、これまで自警団の歴史について言及しました。今回からアメリカ世における「刃物による刺傷事件の多発」について言及します。
那覇署は〔昭和37年8月〕4日午後11時から旧盆を前にしての防犯取り締まりと、特飲街の実態調査に乗りだした。初日の4日は、杉原総務課長、照屋外勤係長、外間巡査部長ら総勢およそ20人、明け方の5時まで盛り場の巡視を行った。
前回の記事において、(現時点で)ブログ主が所持している史料を基に、アメリカ世時代の自警団の歴史について言及しました。ここで強調しておきたいのは、自警団はあくまで地元側の要請が不可欠であり、那覇派やコザ派のアシバーたちが勝手に「作りたい」といっても出来ない代物であることです。
既にご存じの読者もいらっしゃるかと思われますが、先月27日投開票のうるま市長選挙において無所属で自民・公明が推薦した現職の中村正人氏が新人2人を抑えて2度目の当選を果たしました。
(続き)今回は昭和40年(1965)4月16日、勝連松島料亭街で起こった殺人事件に関して、ちょうどいい機会なのでアメリカ世時代の「自警団」について言及します。
前回の記事において、阿麻和利時代に港として利用されていたとされる “浜川” を拠点とした外洋貿易は無理であると述べましたが、今回はその理由について言及します。
のたとえのとおりしりょぶんめつのないものが刃ものを持つと危険このうえない。勝連村の松島料亭街を凶器を持って襲った暴力団員たちも思慮の全くない一種のきちがいというべきで、あのような惨事をひきおこした(下略)
前回の記事において、勝連城跡で使用された瓦は船で輸送された可能性について言及しました。では「どこから持ってきたのか?」を考察する前に、16世紀以前の勝連における海運について考察します。
今回から複数回にかけて新二年生の逸材を紹介しますが、初めに紹介したいのが “いかにも興南の左腕” の好投手、後藤葵季くん(興南2年)です。この投手はとにかく打ち辛い、後から球が飛んでくる錯覚の左腕はブログ主も始めた見た感があります。
とはいっても投球スタイルはオーソドックスで、ストレートでも変化球でもカウント稼げますし、右打者・左打者の苦手もなさそうです。しかも去年秋は120㌔前半と聞いていた球速が、アベレージ120㌔後半、最速132㌔までアップしていました。新2年生としては申し分ないレベルですので、読者のみなさん、是非ご参照ください。
今年の沖縄の高校野球はセカンドの逸材が目を引きます。既にご存じのファンも多いかと思われますが、センバツで大活躍したイーマン琉海選手(エナジック)、そして比嘉大登選手(沖尚)の両選手はU18代表候補にも選ばれています。
これまで「おもろさうし」から見た勝連の実力について考察してきましたが、それはあくまで中城や越来との比較であって、古代社会における勝連半島の地域が経済的に貧相だった裏付けにはなりません。その傍証として勝連城跡からの出土品から、それなりの財力を備えていたことが分かります。
先月20日より絶賛開催中の第72回沖縄県高等学校野球春季大会も、本日5日に3位決定戦と決勝戦が行われ、宜野座高校が21季ぶり3度目の優勝を決めました。
そういえば先月27日は「沖縄県」が設置された “琉球処分” の日ですが、例年この日の前後あたり、SNS上で「日本の植民地的支配が云々」を唱える輩がちらほら見かけます。
先日ブログ主は、平成30年(2018)1月30日に配信した過去記事「沖縄県民の欠点とは(目的と手段の入れ替わり)」を読み返したのですが、ワシントン事務所の案件を予見した内容であることに気が付きましたので、改めて内容を整理します。