ちょっと意地悪な話

アメリカニューヨークの国連本部で22日、世界の先住民族や各国代表による「先住民族世界会議」の分科会が開かれ、我が沖縄県から糸数慶子参議院議員が参加してスピーチを行ったようです(詳細は下記のURL参照)。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/44379

今回は演説内容については取り上げず、国連の分科会に出席した糸数先生の容姿に注目しました。紅型の民族衣装に身を包んだ先生のご満悦な写真が沖縄タイムスの電子版に掲載されていますが、ただしこの格好は先住民の容姿としては1つだけ足りないところがあります。それは琉球王国時代のほとんどすべての女性が施した両手の甲の入れ墨(ハジチ)*が見当たらないのです。 

*アイキャッチ画像の入れ墨(ハジチ)は沖縄県今帰仁村文化センターブログ内に掲載されたものです。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その10

琉球士族

前回までの記事で、那覇の女性商人たちからついに近代的経営者が誕生しなかった件を説明しました。ここからは琉球王国(あるいは琉球藩)の時代において女性が文字を読めず、学問の世界から遠ざけられたもう一つの弊害について記述します。それは廃藩置県までの琉球の女性たちが伝統主義の思考法から抜け出すことができなかった点です。

まず初めに伝統主義について説明します。伝統主義は「これまで続いてきた慣習は、その事実だけで絶対的に正しく、今後もこれまでの慣習通りに行動する」という思考法です。旧慣墨守と言い換えたほうが分かりやすいかもしれません。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その9

廃藩置県後の沖縄県の産業経済活動は寄留商人(鹿児島系)などの県外人によって牛耳られてしまいます。廃藩置県後は県内移入の物資と県外移出の商品が激増したため、経理に長けた日本人たちでないと商品の流通を取扱うことができなかったのです。

時代の変化に那覇の女性商人たちは無力でした。彼女らは算数を知らないために巨額の金額を取り扱うことができませんでした。彼女らは従来の露天商売を行うのみで、前述した通り近代的な経営者に転身した人物は一人もいませんでした。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その7

前回で女性が文字を知らず、学問の世界から遠ざけられていたための社会的弊害について記述しました。その弊害は後世にまで及んだのですが、その1つに産業経済の面で女性の経営者がついに誕生しなかったことがあります。

18世紀中盤の琉球王府の政策の一つに士族の商業推奨があります。理由は18世紀になると琉球国の士族人口が増加して、王府が士族全体に職を提供できなくなったからです。王府は士族に対する課税を免訴して他の職業で収入を得るように方針転換します。(ただし士族の子女を尾類(ジュリ)に売る行為は禁止されます)

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その6

前回までに琉球・沖縄の歴史において文字が読めたかもしれない女性の階層が2つあることを記述しました。神女の階級と尾類(ジュリ)たち直筆の書が発見されていないため文字の読み書きができた確証はありません。ただしこの2つの階層には共通点があります。それは独自の文化を継承してきたことです。

それに対して士族の女性たちは独自の文化を形成していません。例外は18世紀中ごろの那覇の士族の女性たちで彼女らは那覇の小売業の中心的な存在になります*。

*昭和の終わりごろまで那覇の平和通り(国際通り)で女性たちの露天商を多く見ることができました。現在でも少数ですが平和通りで小商いをするオバァたちがいます。これは300年近く続いた那覇の女性たちの慣習です。

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2016年9月11日に発足した「東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会」について突っ込みたいこと

9月11日に琉球大学において「東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会」が主催する公開シンポジウムが開催されました。沖縄の自立や独立をテーマとして幅広く議論を行うことが目的のようですが、研究会の名誉顧問に鳩山由紀夫氏が就任したことについてはさすがに突っ込まざるをえません。張本勲さんではありませんが「喝!!!!」と大声で叫びたい気分です。

ブログ主は普天間基地の辺野古移設問題を解決不能にした張本人を研究会の名誉顧問に就任させる神経がよくわかりません。体を張ったギャクでしょうか?考えれば考えるほど意味不明なのですが、では鳩山氏と普天間基地問題の歴史を調子に乗って解説しますのでご参照ください。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その4

前回まで琉球王国時代(あるいは琉球藩の時代)には女性は文字の読み書きができなかった件を記述しました。正確に言うと「史実で文字が読める女性を確認できない」のですが、もしかすると文字が読めたかもしれない女性の階層が2つあります。

まず考えらるのが地方の神女(ノロ)たちです。彼女らは琉球王府から正式に辞令を受けて初めて神女としての任務を全うできたのですが、その辞令書は和文で記載されていました。琉球王府時代に交付された辞令書は高良倉吉先生が精力的に調査していますので、その著書「琉球王国」より当時の辞令書を抜粋します。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その3

前回は都市部の士族たちの教育システムや講義内容について記載しました。では人口の多数を占める農村部はどのような教育事情だったのでしょうか。

琉球王国時代は士族は都市に、百姓は農村に住むよう規制されていました。学問は士族の特権で百姓たちは教育をうける機会が全くと言っていいほどありませんでした。例外は以前の記事で紹介した奉公人の階級です(琉球藩の時代 その18参照)。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その2

琉球王国時代の教育制度は19世紀に完成します。教育機関は都市部である首里と那覇に設置*されていました。入学資格があるのは士族のみ(那覇や首里にも少数ながら町百姓が住んでいました)で、入学時期は7歳からです。

*首里と那覇(あるいは久米)では進学ルートが違いますが、入学の時期と受講内容はほぼ同じです。 

最初に入学する村学校(現在の小学校に相当)では主に漢学を受講します。1875年(明治8)12月に河原田盛美氏がその著書「琉球紀行」で那覇市内の4つの学校(西村、東村、若狭町、和泉崎)を視察した件が記載されていますので、一部紹介します。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その1

過去のブログを総点検している際に、現在連載している「誤解だらけの琉球藩の時代」の前の「琉球・沖縄の歴史の個人的な謎」で近代にいたるまで女性が文字を読めなかった件を記事にアップしていないことに気が付きました。琉球藩の時代で当時の政治・社会情勢についてある程度詳しく記載しましたので、ここで琉球王国時代に女性が文字を読めなかった件をアップします。この記事は是非女性の読者に読んでいただきたいです。

1872年(明治5)に琉球王朝が琉球藩に鞍替えした際に、現在の那覇市西町に設置されていた(旧薩摩藩の)在番奉行所を明治政府は外務省出張所として利用します。そして政府側から伊地知貞馨、奈良原幸五郎をはじめ役人を派遣して琉球藩庁の為政者たちとの折衝を行います。

その時来琉した知識人で農学者の河原田盛美氏(1842~1914)が当時の琉球社会の様子を記述した著書を刊行しています。その著書「琉球紀行」のなかに「琉地曾て女子に学問を為さしめず。その蕃たる大甚し」との記載があります。河原田氏が来琉したのは1875年(明治8)ですから、当時の琉球藩内の女性は文字が読めなかったことになります。

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琉球藩の時代 その18

琉球王国の時代は間切や村を領有する王子家・地頭階級は首里に居住し、士族の大半を占める無禄士族は首里、那覇、久米、泊に居住していました。彼らは直接農村に出向くことがなかったので奉公人は琉球王府の地方行政にとって欠かせない存在でした。

琉球・沖縄の歴史上で奉公人の教育を受けた著名人は謝花昇(1865~1908)*です。彼は13歳の時に奉公人として採用され、東風平間切内の按司地頭御殿に勤務します。彼のように農村の優秀な子弟を10代前半で選抜して村内(あるいは首里)で教育を施すのが一般的でした。奉公人は租税の軽減など様々な特権を有していましたが、最大の特徴は文字の読み書きができたことです。

*謝花昇の伝記は数多く発刊されていますが、幼少期に奉公人として採用されたエピソードを記載していない伝記は信用してはいけません。 

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