誤解だらけの琉球藩の時代

琉球・沖縄の歴史で最も誤解されている琉球藩の時代について調子に乗って語ります。

勤労意識の違いについての考察

明治の時代に来沖した他府県人の手記を確認すると、必ずと言っていいほど男逸女労(だんいつじょろう)、あるいは遊手徒食(ゆうしゅとしょく)の表現を見かけます。男逸女労とは文字通り”男は働かず女が働いて食わせてもらう”の意味ですが、太田朝敷先生は『沖縄県政五十年』において「それはあらぬ誤解である」と憤慨しています。確かに太田先生のご指摘どおりこの件は誤解に基づく風評被害の一面がありますが、他方当時の士族たちに勤労意欲が欠けていたことは否定できません。試しに下記引用をご参照ください。

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國體政體永久不相替是迄通被仰付候段一昨年外務卿ヨリ御達有之

明治8年(1875年)における琉球藩と明治政府との交渉に関して調べているうちに、外務卿副島種臣より琉球藩国体永久不相替の言質とその覚書があり、それを理由に琉球藩が藩政改革を拒んだとの記述を見つけました。実際にそのような覚書があるのかチェックしたところ、意外にも簡単に見つけることができましたので今回当ブログにて紹介します。明治6年(1873年)9月20日付の琉球藩への達書をご参照ください。

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明治政府はなぜ琉球を日本と見做したか

今回は明治政府が何故琉球を日本の版図(主権の及ぶ範囲)と見做したかについて言及します。というのはブログ主が確認した限りですが数多くの琉球・沖縄の通史でこの件について詳細に説明している著書を見つけることができないからです。ちなみにこの案件について詳細に記述しているのが喜舎場朝賢著『琉球見聞録』や松田道之の『第一回奉使琉球始末』ですが、今回松田の史料を利用して当時の明治政府の琉球における立場について説明します。

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琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付願

今回は明治6年(1873年)4月12日、伊江王子および三司官名義の嘆願書等の史料について言及します。原文は『琉球所属問題関係資料(全八巻)_第六巻琉球処分上・中』からの引用で、読み下し文はブログ主にて作成しました。この史料については仲里譲著『琉球処分の全貌』の64~67㌻にも詳しく記載されていますが、ブログ主と仲里氏では解釈に若干の違いがあります。

ただし史料を読み終わったときの感想は同じで、「余りの貧困に絶句して何を言ってよいかわからない(同著67㌻)」になります。その部分を抜粋しますのでご参照ください。

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琉球藩時代の惨状

以前、当ブログにおいて慶応2年(1866年)の冊封時点で、琉球王国は経済的に終わってしまった旨の記事を掲載しました。その惨状の爪痕は明治6年(1873年)を『琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付願』など当時の史料からある程度確認することができましたので、当ブログにて紹介します。

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琉球王国はなぜ米仏蘭との国際条約に清国の暦法を使用したかの考察

先日、ブログ主は東恩納寛惇著『尚泰候実録』の351㌻(明治11年候36歳)の項目を読んでいたところ、同年10月7日付で在日清国公使の何如璋(か・じょしょう)が寺島宗則外務卿宛てに出した書簡についての記述に目が留まりました。その一部分を抜粋しますので、読者のみなさんぜひご参照ください。

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文替(もんがわり)に関する史料

今回は、文久元年(1861年)から始まった文替(もんがわり)に関する史料をチェックしてブログ主なりに纏めてみました。比嘉春潮著『沖縄の歴史』、東恩納寛惇著『尚泰候実録』、および『球陽(附巻四)』から文替に関する記述を抜粋して表作成すると次のようになります。

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琉球・沖縄の歴史上最悪の布令

早速ですが、比嘉春潮著『沖縄の歴史』の一節をご参照ください。

1861年(尚泰14)年正月26日、首里王府は「御国元(薩摩)で小銭が少なくなったので、銅銭一文に鉄銭二文引合で御蔵の収入支出・領内一般通用することになった。当国でも御国元同様の引合で通用を仰せ付けられたについては、諸座諸蔵は座検者で取締り、首里泊那覇久米村は横目・惣横目、田舎は小横目で取締ることにする。もし違犯の者があったらそれぞれ処罰する」という布令を出した。昨日まで同価値で通用していた銅銭と鉄銭が、今日から二と一の割合に通用価値が変動したわけであった。これを文替(もんがわり)と称した

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化外ノ野蕃

前回の記事において、日本と清国における琉球帰属の認識の違いについて述べました。今回は台湾出兵における有名な「化外の○○」という語句について言及します。たとえば喜舎場朝賢著『琉球見聞録』の15㌻を参照すると、

(明治7年)4月陸軍中将西郷従道軍を率て台湾生蕃を膺懲す。初め明治4年琉船三艘宮古島へ赴く洋中逆風に遇ひ台湾生蕃牡丹社の地に漂泊し礁に触れ破壊し七十余名漂水して岸に上る生蕃人のために剽掠殺害せられ僅か十数名遁走し稍く福州に達し生還を得たり。朝廷条約を締ぶ事のために副島(種臣)外務卿を清国へ遣はさる其の時台湾生蕃の琉人を殺害したる罪を責む。清国政府云う、生蕃は化外の地我が照管する所に非ずと是を以て……

と記載されています。「化外の○○」という文言は明治6年(1873年)6月21日、北京の総理衙門において日本と清国側での外交交渉のなかで「化外の野蛮」という文言が発せられ、これが元ネタではと考えています。今回その部分を抜粋しましたので読者のみなさん是非ご参照ください。

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属国と属藩の違い

今回、当ブログにおいて明治6年(1873年)6月21日、北京の総理衙門(清朝の外交官庁)における日本と清国との外交についての記事を掲載します。明治4年(1871年)11月に起きた宮古島島民遭難事件に関する交渉記録を参照すると、実に興味深い点がいくつか確認できました。教科書等でもよく知られている「化外の民」という語句の元ネタがこの時の折衝であったことと、日本と清国側で琉球の帰属に関する認識が異なっていることが分かる内容が記載されています。読者のみなさん是非ご参照ください。

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