現代史いろいろ

飯田猶という人物

今回は復帰後の沖縄において実際にあった反自衛隊闘争について言及します。いまではありえないことですが、我が沖縄において自衛隊所属のスポーツ選手は沖縄代表として国体に派遣されることはありませんでした。その前例になった事件については後日説明しますが、昭和52(1977)年10月開催の第32回国体秋季大会(青森県)で初めて自衛隊所属の選手が国体に派遣されます。

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黒い祖国復帰運動

今回もアメリカ世時代の新聞ネタをもとに記事を作成しますが、昭和39(1964)年8月7日付琉球新報夕刊1面に”ものくゆすどわが御主”というタイトルで祖国復帰に関する世代間対立のコラムが掲載されていました。

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学びの国…がぴったり

本日もブログ主は沖縄県立図書館を訪れて史料チェックをしていましたが、その中で極めて興味深い記事を発見しました。それは昭和52(1977)年8月29日付琉球新報5面に「学びの国…がぴったり」と題したとある国の教育事情についての記事です。

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平和の擁護 – 原子戦争反対、沖縄の原水爆基地化反対

前回の記事においてブログ主は沖縄原水協の分裂騒動について言及しました。なぜこの記事に関心をもったかと言うと、実は以前に沖縄人民党第七回党大会(1956年1月22日)および民連選挙の綱領を見たことがあるからです。

たとえば沖縄人民党第七回党大会の綱領には

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不屈の精神とは言うけどさ……

本日沖縄県立図書館で琉球新報の記事をチェックしていたところ、昭和39(1964)年7月21日付琉球新報朝刊1面に「原水協、分裂状態に」と題した沖縄原水協の分裂騒動についての記事が掲載されていました。ブログ主は原水協(原水爆禁止日本協議会)など日本の原水爆禁止運動については詳しい知識はありませんが、それでも記事内に気になる記述がありましたので当ブログにて紹介します。

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自衛隊は招かざる客

前回の記事があまりにも反響を呼び過ぎたため、正直公開をためらいましたが、今回は昭和52年1月の自衛官成人式不招待問題の記事を紹介します。ちなみにこの問題は、昭和54年(1979年)から那覇市が成人式の主催を地区実行委員会に変更したことで解決します。つまり地区の実行委員会が成人式に自衛隊員を招待するようになったことで、那覇市長の事実上の敗北という形で決着がついたのです。

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院外団と暴力

昭和37年(1962年)12月8日、琉球政府主席を指名するために開催された立法院の臨時議会において、琉球・沖縄の歴史に残る大騒動が起きました。大まかに説明すると、主席公選を主張する野党側(社会大衆党、社会党、人民党)が臨時議会における主席指名を阻止するために院外団(革新共闘会議、沖教祖など)を動員、そして彼等の一部(300人ぐらい)が立法院に乱入して与党議員を軟禁し最終的に琉球警察によって排除された事件です。

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不発弾の処理と自衛隊

今回も沖縄県と自衛隊に関する話題を提供します。昭和47年(1972年)に復帰した際の問題のひとつに不発弾処理があります。実はアメリカ世の時代(1945~1972)は沖縄戦の結果生じた大量の不発弾はアメリカ軍が処理しましたが、復帰後はアメリカ側が処理業務を断った経緯があります。この案件に関しては沖縄県と政府との交渉の結果、最終的に自衛隊が処理することで決着しました。その時の記事全文を書き写しましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。

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沖縄タイムス”創刊号”

今回は参考までに、昭和23年(1948年)7月1日付の沖縄タイムス創刊号1面の記事を紹介します。旧沖縄新報(大東亜戦争時の一県一紙統合政策によって誕生した新聞社)の社員が中心になり、そして米軍政府の発行許可を得て「沖縄タイムス」は誕生します。そのときの創刊号の記事を見ると、ブログ主からみて極めて興味深かったのが

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號問慰軍皇 – 輯特回二㐧

今回は昭和15年(1940年)8月25日付沖縄朝日新聞の記事を紹介します。これは支那事変3周年を記念した特集号で、当時の沖縄社会の様子が写真つきで掲載されている一級の史料です。そのなかに『職場より戦線へ!』と題して沖縄朝日新聞社の社員さんの集合写真が掲載されていました。それと支那戦線で奮闘している兵隊さんたちへのメッセージもあり、ブログ主が全文書き写しましたので読者の皆さん是非ご参照ください。

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56年前の琉球新報の記事から

本日は昭和37年(1962)12月27日付の琉球新報から興味深い記事を見つけましたので紹介します。現代と同じくアメリカ世時代も「歳末助け合い運動」が実施されていて、二千五百㌦の寄付金が集まったニュースが報じられていました。ブログ主が全文を書き写しましたので、早速ですがご参照ください。

(注)当時の1㌦は360円で、それに約4倍すれば現在価格と見做すことができます。

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サンフランシスコ講和条約批准に対する瀬長亀次郎氏のコメント

今回は昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ講和条約批准の日における瀬長亀次郎氏のコメントを掲載します。不屈さんこと瀬長亀次郎氏関連の史料をチェックして印象的なのは、威勢の良い発言の場合には決まって何か”ウラ”を感じることです。そして今回の平和条約に対する瀬長さんのコメントや当時の新聞を参照すると面白いことに気が付きました。瀬長さんのコメント全文を書き写しましたので読者の皆さん、是非ご参照ください。

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沖縄県民の本質

今回は昭和27(1952)年11月14日付琉球新報に掲載された社説「琉球と現実」について言及します。ブログ主が確認した限りではありますが、ここまで沖縄県民の本質をズバリ指摘した言説はちょっと見当たりません。昭和27年当時とはいえ現代の沖縄県民にも通ずる内容で、当時の言論人のレベルの高さを伺い知ることもできる貴重な史料です。

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当ブログ始まって以来のスクープ案件

本日ブログ主は何気に昭和27年(1952年)10月の琉球新報記事をチェックしていたところ、一際目を引く記事を発見しました。当ブログは平成28年(2016年)5月19日に開始して2年以上経過、その間数多の史料を閲覧および記事として配信してきました。その中でも今回発見した記事は最高レベルのスクープであること間違いありません。ブログ主が知る限りでは初めて確認した案件です、読者の皆さん是非ご参照ください。

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沖繩の魂未だ死せず

今回は昭和26年(1951年)9月23日付琉球新報の社説を紹介します。当ブログにおいて既に紹介しましたが、同年9月10日付でうるま新報から琉球新報に復元改題後間もない時期に「沖縄の魂未だ死せず」と銘打った社説が掲載されたことにブログ主は感動を覚えました。理由は民族的な意味を含む形で”沖縄”という単語を使用しているからです。

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