ファミマでUEMA

本日ファミリーマートに立ち寄った際に、”ファミマでUEMA”と題して上間てんぷらが店頭販売されていました。琉球新報の記事によると本日(26日)からの販売との記載があり、実際に購入して食べてみました。

4月に試験販売した際は大好評だったようで、そのときは残念ながら購入することができませんでした。今回はさかな・いも・いかの三種類を無事購入することができましたので早速記事にまとめてみました。読者のみなさん、ぜひご参照ください。

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TPOをわきまえることの大切さ

今回も(自称)名誉若狭民であるブログ主が旭ヶ丘公園などに設置されている”石碑”について記事をまとめてみました。若狭地区の散策で始めてわかったのですが、旭ヶ丘公園付近は沖縄を代表する”石碑のメッカ”です。本来ならじっくり時間をかけてひとつひとつ紹介したいところですが、限られた時間内なので主な石碑のみ撮影してきました。読者のみなさん是非ご参照ください。

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那覇市若狭の存在感を探しにいった結果……

今回は那覇市若狭(わかさ)の散策結果を紹介します。旧那覇からの由緒ある地名にも関わらず”存在感の薄さ”が際立つ若狭地区ですが、その理由はやはり”波の上”の圧倒的知名度にあります。

たとえば沖縄県民なら”波の上神宮”をよく知っていますが、その所在地が”那覇市若狭一丁目”であることを知る人は少ないはずです。”波の上ビーチ”も同様で”若狭海浜公園”の中にあります。那覇市民であればご存知かもしれませんが、典型的な宜野湾民であるブログ主にとっては、

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【暫定】大日本帝国が沖縄に対して行った残虐非道な所業で打線を組んでみた

今回は復習の意味もかねて、大日本帝国が沖縄を支配していた時期(1879~1945)年における悪行について打線を組んでみました。本来は別の記事を掲載する予定でしたが、前日フェイスブックに面白い投稿&リクエストがありましたのでそれに応える形になりました。

ブログ主は朝鮮半島の歴史はよく知りませんが、「日本が朝鮮にした恐ろしいこと!!!」という画像をみて「大日本帝国マジやべー」と思った次第であります。我が沖縄も朝鮮半島のように日本帝国主義の残酷極まりない仕打ちにあったのかと思うと胸が痛みます。とくに女性たちが気の毒で涙がとまりません。読者のみなさん心してご参照ください。もちろん異論は認めます。

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【暫定】尚王家の悪行で打線を組んでみた。

今回はちょっと趣向を変えて、ブログ主独断で尚王家の悪行で打線を作成してみました。

昔、琉球王国時代のぐう畜エピソードで打線を組んだことありますが、王家限定でもハイレベルの悪行が確認できます。上位打線が鬼畜レベルで草も生えませんが、いまから紹介するエピソードは紛れもない史実です。今回は解説はなしで淡々と事例のみ紹介しますので、読者の皆さんぜひご参照ください。もちろん異論は認めます。

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那覇市久米付近を散歩してみた結果…

今回は史跡めぐりの一環で那覇市久米を散策したところ、予想の斜め上をいく”じわじわくる”ポイントが複数見つかりましたので、ためしに記事にまとめてみました。

ちなみに旧久米村は以前は唐栄(閩人=福州出身の中国人)たちの居住地で、廃藩置県後に那覇に合併された歴史があります。琉球・沖縄においては古い歴史を持つ地区であり、いまでもその痕跡は残されています。読者のみなさん、ぜひご参照ください。

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図解してみた – 幻の組織”極南会”

昭和38(1963)年11月21日から、又吉世喜殺害未遂事件(ほか証人脅迫)の裁判が米国民政府高等裁判所で始まりました。被告人は喜舎場朝信、新城喜史で、実はこの裁判は琉球・沖縄の歴史上初の”大陪審員制度”で行われた歴史的な出来事です。

ちなみに実行犯の(疑いがある)山中一夫は国外である”宮崎県”で逮捕されるというこれまた異例の展開ですが、この裁判においてコザ派内部に”組織”が存在していたという証言が飛び出して世間は騒然とします。

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黑い首里城

令和元(2019)年10月31日の首里城正殿および関連7棟の火災がキッカケで、ブログ主も改めて首里城関連の史料をいろいろチェックしようと思い立ちました。実は建築に関しては素人(プラスあまり興味がない)であることと、首里城に関しては語り尽され感があったので当ブログでもほとんど取り上げていませんが、今回改めて調べてみること思わぬことに気がつきましたので早速ですが纏めてみました。

首里城正殿は令和の火災を含めると5回焼失しています。1回目から3回目までは『球陽』の記載をまとめると、

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ぶっそうな琉球社会

いまさらですが、アメリカ世の時代は琉球・沖縄の歴史上もっとも物騒な時代だったと考えています。象徴的なのが”交通事故”と”未成年者犯罪の激増”の頻発で、そこから生じる治安の悪さは琉球社会の大問題になっていました。

ちなみに治安が悪かった理由のひとつには、戦後の人口増に対して琉球警察の人員が足りなかったことがあります。たとえば中部地区で最も犯罪が多かったのが美里村吉原(当時)ですが、昭和38(1963)年の記事をチェックするとなんと警官不足で派出所が設置されていません。

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新城喜史さんとはこういう人なんだと思った件 – その2

今回は新城喜史さんのエピソードを紹介します。前回の記事で那覇市の繁華街で暴れた挙句に国外に逃亡したお話を紹介しましたが、今回も負けず劣らずのやらかし話ですので、読者のみなさん是非ご参照ください。

その前に彼のフルネーム(漢字)ですが、当時の新聞を参照すると「義史」「義文」あるいは「喜史」と記載されています。いったいどの表記が正しいのか気になりますが、昭和49(1974)年10月の新聞紙上に掲載されたお悔やみ欄には”新城喜史”と表記されていましたので、当ブログにおいては”喜史”と記載します。

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