今回はひさびさに沖縄ヤクザネタを提供します。アメリカ世の混沌としたアングラ業界では(当たり前のように)大幹部クラスが数人射殺されていますが、そのなかで(確認できた限りでは)唯一天寿を全うした人物がいます。その名は”善良な市民”こと喜舎場朝信さんです。
自衛隊は日本軍の後継者なのか、違うのか
今回はひさびさに沖縄タイムスのコラムに対する真面目なツッコミ記事を掲載します。令和元年6月24日付沖縄タイムス1面〈大弦小弦〉を読んだところ、見過ごすことができないミスリードがありましたので、勝手ながらブログ主にて訂正記事を掲載します。
全文を書き写しましたので、読者のみなさま是非ご参照ください。
宮古島の惨状
今回は尾崎三良(おざき・さぶろう)関連の史料から宮古島に関する記述を紹介します。尾崎関連の史料は明治15年11月26日に山形有朋参議に提出した『沖縄県視察復命書』がよく知られていますが、今回は明治15年7月19日から9月26日までの滞在記(尾崎三良琉球行日記)を参照しました。
琉球王国時代の宮古島については人頭税に代表されるように「搾取された」イメージが強いのですが、実際の史料をチェックすると予想の斜め上を行く惨状であったと思わざるを得ません。本島出身者には心が痛む内容かと思いますが、こういう現実があったことは無視するわけにはいきません。読者のみなさん是非ご参照ください。
砂糖取引の改良を望む
今回は明治34年1月11日付琉球新報2面に掲載された論説を公開します。ブログ主はこの論説の存在を「琉球新報は何事を為したる乎」で初めて知りましたが、実際にチェックすると琉球国から明治にかけての糖業の致命的欠陥を伺うことができる第一級の史料であると確信しました。その欠陥とは流通ルートを薩摩人(あるいは鹿児島県人)の糖商に牛耳られてしまったため、黒糖の買い手が圧倒的に有利であったことです。
レストラン”イノー”は外国人観光客でしにいっぱいだったワケさぁ
今月13日にブログ主は琉球王朝時代の家を取材するため海洋博記念公園を訪れました。そのついでといっては何ですが、美ら海水族館内のレストラン”イノー”に立ち寄って軽くランチを済ませてきました。実はブログ主はレストラン”イノー”の前身である熱帯ドリームセンターの中にあったレストラン”オアシス”の時代から何度か訪れていまして、今回は12年ぶりに立ち寄ってみたのですが、まぁ外国人観光客で大混雑しているのにはびっくりしました。以前はランチ時もガラガラだったんですがね(笑)。その時の様子をまとめてみましたので読者のみなさん是非ご参照ください。
鳩山総理の英断を待つ普天間飛行場
今回は偶然発見した「沖縄世論」2009(平成21年)秋季号の記事を紹介します。読者の皆さんはご存じとは思いますが、同年9月の衆院選で政権与党の自民党が敗北したことで、民主党(当時)を中心とした連立政権が誕生します。鳩山政権誕生で普天間基地の県外移設が実現するのではとの期待感が沖縄県に充満したいた時期でもあり、「沖縄世論」の記事はその空気を反映した出来栄えになっています。
琉球王国時代の穴屋を見にいったお話(2年ぶり2度目)
実は以前に当ブログにて掲載したことありますが、今回は2年ぶりに琉球王国時代の民家について言及します。明治34年1月11日付琉球新報に「芋の葉露」と題打ったコラムが6回掲載され、当時の田舎社会の暮らしぶりが詳しく記述されていました。その中に住宅に関する記述がありましたので、参考までに現存する海洋博記念公園内「おきなわ郷土村」に展示されている穴屋(あなや)を再び取材してきました。
ウチナータイム
先日よりツイッターで話題になっている不良マンガ「東京から沖縄に転校してきた不良の四コマ」でいわゆるウチナータイムに言及している箇所がありました。ウチナータイムはウィキペディアにも登場する程のウチナーパワーワードですが、ウィキの説明はちょっと凝りすぎるところがありますので、わかりやすい例として斎湖 伴仗さんのツイッターを引用します。読者の皆さん是非ご参照ください。
自衛隊は招かざる客
前回の記事があまりにも反響を呼び過ぎたため、正直公開をためらいましたが、今回は昭和52年1月の自衛官成人式不招待問題の記事を紹介します。ちなみにこの問題は、昭和54年(1979年)から那覇市が成人式の主催を地区実行委員会に変更したことで解決します。つまり地区の実行委員会が成人式に自衛隊員を招待するようになったことで、那覇市長の事実上の敗北という形で決着がついたのです。
風呂文化と琉球
今回は琉球・沖縄の歴史における風呂文化について少し言及します。国王やその女官たちは別として、ブログ主は琉球・沖縄の歴史において”入浴”に関する記述が非常に少ないのが常に頭のなかにひっかかっていました。
衛生観念が皆無というわけではないのですが、それにしては入浴に言及する箇所が極めて見つけにくい。実はブログ主が最初に確認したのは河原田盛美著『琉球紀行』の一節です。全文を書き写しますのでご参照ください。
オーバーキル
本日(6月3日)ブログ主は那覇市久茂地にある中華料理店”紅虎餃子房 レッドタイガー 久茂地”を訪れ、有名なランチ限定メニューを食べてきました。前回は”中華ラーメン悠楽”の鳥唐揚げ定食で敗北を喫してしまったブログ主ですが、今回もなかなかの強敵なので、それ相応の気合を入れて乗り込みました。B級グルメ好きの読者のみなさん、ぜひご参照ください。
上級県民の一例
以前、当ブログにて「上級県民の考察」と題した記事を配信しました。今回は昭和52年(1977年)に実際に起こった出来事を例にして、ブログ主なりに上級県民の生態について言及します。
その出来事とは毎年15日に行われる那覇市主催の成人式に自衛隊員を招待しない問題で、昭和52年1月12日に自衛隊側が那覇市に対して質問状を提出したことから大問題になりました。その時の記事は以下ご参照ください。
琉球古代史の難問
ここ最近ブログ主は血縁カリスマの考察のために、『中山世鑑』などの史料を中心に琉球古代史についてチェックしています。よく考えてみるとブログを運営して3年経過しましたが、琉球古代史はあまり触れてきませんでした。その理由が ① 四書五経など朱子学の知識が足りないこと、② 漢文や読み下し文の史料を読みこなす力が不足していたこと、③ そしてなにより琉球古代史は地雷原そのものなので、うかつに手を触れるのは危険かなと思ったからです。
廣告の利益
今回も太田朝敷関連の資料を掲載します。琉球新報は明治33年7月15日から紙面を大幅に改良しますが、その2日後に「広告の利益」と題打った社説を掲載します。ブログ主はこの論説を非常に重視していますが、その理由は琉球新報社が営利を意識して新聞を発行していたことがハッキリ分かるからです。
寄奈良原男爵書
今回は明治33(1900)年9月17日付琉球新報の無署名記事「寄奈良原男爵書」を紹介します。奈良原繁知事在任中(1892~1908)に掲載された知事評は実に珍しく、しかも論評が極めて冷静かつ的確であり、明治時代のジャーナリストのレベルの高さと社会における言論の自由度を伺える内容となっています。












