組織暴力団 – 火を吹く抗争 まとめページ

昭和52(1977)年5月20日付琉球新報11面から10回に渡って連載された特集記事 “組織暴力団 – 火を吹く抗争” のまとめページを作成しました。

ちなみにこの特集記事が掲載されたきっかけは、同年5月18日に那覇市牧志の十貫瀬で発生した旭琉会組員による射殺事件です。同年3月から旭琉会による上原組・琉真組に対する襲撃事件が頻発するようになり、その流れで射殺事件が起こったわけですが、さすがにこの事件は沖縄県警および世論の怒りを買います。

ちなみにこの事件の翌日に上原組の上部団体である山口組系大平組員30名余が来沖し、那覇空港で県警と大揉めになった事件も発生してまたまた県民の顰蹙を買ったわけですが、そんな当時の空気のなか琉球新報の特集記事が掲載されます。

昭和49(1974)年9月から発生した第四次沖縄抗争の流れは下記引用をご参照ください。

暴力団抗争事件

49年9月1日 上原勇吉一派旭琉会を脱会

同年9月20日 那覇市西の旭琉会アジトで上原一派組員に対する主流派の集団リンチ事件発生。

同年10月24日 宜野湾市真栄原のクラブで旭琉会山原派理事長・新城喜文(45)が上原一派に射殺される。

同年12月15日 上原一派の幹部、山城朝栄(38)が糸満市喜屋武の「平和の塔」裏のがけ下に刺殺され、棄てられる。山原派主流派の行動隊による犯行。

50年2月14日 上原一家の仲宗根隆(21)ら3人が同じく山原派主流派によって国頭村楚洲の山中に射殺され埋められる。

同年10月16日 那覇市識名の識名霊園入り口でオートバイに乗り闘犬を散歩させていた旭琉会那覇派の理事長又吉世喜(42)が乗用車に乗った2人組にコルト45径自動式短銃3発を撃ち込まれ即死。

51年1月30日 那覇市久茂地の国道58号線で旭琉会那覇派幹部我喜屋良善(32)が3人組に短銃で射殺される。

同年8月21日 旭琉会糸満支部喜屋武グループ幹部・前原政春(31)が同グループの内部抗争で糸満市内のアジトで射殺され、北名城ビーチに埋められる。3ヶ月後に事件発覚。

同年10月2日 県警捜査二課は大阪市大正区で旭琉会会長・仲本善忠(49)を国頭村楚洲の殺害事件にからむ殺人、死体遺棄、不法監禁など共同正犯容疑で逮捕。

52年3月4日 那覇市久茂地の組織暴力団山口組系大平組「琉真会」アジトに4人組が短銃9発を乱射、負傷者なし。

同年4月26日 宜野湾市志真志で旭琉会あけぼのグループ幹部、組員2人が組内のもつれで撃たれ重体。

同年5月13日 琉真会・上原組と旭琉会抗争がエスカレート。那覇市久茂地の琉真会アジト近くで同組員2人が短銃で撃たれ重傷。

同年5月15日 上原組組長らの乗った乗用車が短銃で襲撃される。

同年5月18日 那覇市牧志十貫瀬で上原組・玉城正(27)が頭を撃たれ即死。(下略)

引用元:昭和57年10月9日付沖縄タイムス夕刊5面

記事:昭和52(1977)年5月19日付琉球新報夕刊3面

これまでの流れを頭に入れた上で琉球新報の特集記事を参照したほうがわかりやすいかもしれません。全10回に渡る連載全文を掲載します。読者のみなさん是非ご参照ください。

1 過熱する銃撃戦

2 抗争事件の底流〈上〉

3 抗争事件の底流〈下〉

4 山口組進出のねらい

5 組織と武器

6 資金源〈上〉

7 資金源〈下〉

8 勢力と構成

9 住民運動

10 強化する警備体制

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