史料

対談 – 復帰の“意味”を追求する

本日は46回目の復帰の日、そこでブログ主にて当時の新聞をチェックしたところ、実に興味深い記事を発見しましたので今回全文を掲載します。昭和47年5月15日 – 琉球新報復帰特集号の第2集に佐久川政一さん(当時沖縄大学学長)と復帰協事務局長との対談が掲載されていました。佐久川政一という極めて香ばしい名称に心魅かれて記事をチェックしたのですが、当時の復帰協(祖国復帰協義会)と革新系知識人の考え方を推察することができる貴重な内容となっています。

ただし予備知識なしで読むと意味不明なところもありますので、捕捉として、①対談者が「(戦後)民主主義=反ファシズム」と考えている、②冷戦は単なるイデオロギー闘争である、③そして日本国憲法を遵守することが戦前の大日本帝国の政治体制との決別と考えていることを念頭におけば対談の意図が理解できると思われます。読者の皆さん是非ご参照ください。(主体という言葉でちょっと吹いてしまうのは内緒でお願いします)

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琉球の帰属

今回は、我が沖縄の先人たちが本土復帰についてどう考えていたかの記事を掲載します。アメリカ世の昭和26年(1951年)に、当時の沖縄タイムス一面に「琉球の帰属」という社説が掲載されました。執筆者は高嶺朝光さん、当時の心境は「新聞五十年」に掲載されているので、下記掲載します。

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昭和41年12月7日沖縄タイムス夕刊3面の記事

本日(4月13日)ブログ主は沖縄県立図書館にて、“教公二法”と“昭和53年の沖縄県知事選挙”に関する史料チェック中に面白い記事を複数発見しました。せっかくなので史料として当ブログにて掲載します。

以前に“裁判移送問題と中村議員の失踪”の記事を掲載しましたが、昭和41年(1966年)12月7日の沖縄タイムス夕刊3面に『とんだ人騒がせ – 真相は本人だけしか知らぬ』のタイトルで中村晄兆(なかむら・てるあき)議員失踪事件について記事が掲載されていました。この事件は戦後沖縄における最大級の謎事件ですので、史料入手次第、不定期ですが当ブログにて情報提供していく予定です。

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「和歌」の前に平等な日本人 – 渡部昇一

カーストを超越して成立した「万葉集」

ある国民の特徴を見るとき、彼らが「何の前において万人は平等と考えているか」ということが、おおいに参考になる。

たとえばユダヤ=キリスト教圏においては、「万人は神の前において平等」という考えが圧倒的である。だから中世の宗教画を見ると、ローマ法皇が地獄に堕ちたりしている。どんなに教会的に高位を占める法皇でも、神の目から見れば奴隷と同じなのである。

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桑を指して槐を罵る – 望月依塑子、森ゆうこ著 『追及力』 の書評

先日ブログ主は望月依塑子記者と森ゆうこ議員の対話録 『追及力』 を購入しました。望月さんは菅官房長官との会見でいちやく有名になった東京新聞の記者ですが、正直なところ「おバカな質問を連発しているな」ぐらいの印象しかありませんでした。だがしかし、彼女の著作を参照した際に面白いことに気がついたので当ブログで書評として記事を掲載します。 

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史料 – 沖縄人民党綱領

今回は昭和22(1947)年11月15日、沖縄(民政府)知事志喜屋孝信宛に提出された、『政党に関する書類 – 沖縄人民党』 より沖縄人民党の綱領、政策について掲載します。沖縄県公文書館 – 琉球政府文書 – 政党に関する書類(1)結成届け、綱領、会計報告からの抜粋です。

『戦争と平和の谷間から』 浦崎康華著によると、試案は浦崎康華さんが作成し、昭和22年7月20日の新党結成大会において無修正で作成されたのこと。以前当ブログで掲載した、新沖縄建設大綱(私案)と比較すると実に興味深い内容です。共産主義的な要素があまり感じられないことに驚かれるかもしれません。読者の皆さん、是非ご参照ください。

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史料 – ウルマ新報誕生の経緯(島清さんの証言)

今回は、瀬長亀次郎さんの足跡をチェック中に発見、『琉球新報80年史 – 新聞にみる沖縄の世相』の通史篇に記述されていたウルマ新報誕生の経緯を掲載します。それはウルマ新報初代社長島清(しま・きよし 1908~1997)さんの証言で、非常に興味深い内容になっています。

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琉球共和社会憲法C私(試)案 – 全文

今回は昭和56(1981)年5月15日起草、そして『新沖縄文学 6月号(48)』に掲載された、「琉球共和社会憲法C私(試)案」の全文を掲載します。なお解説(という名の突っ込み)は後日改めて述べることにして、先にこの私案が起草された背景について説明します。

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史料 昭和21年の瀬長亀次郎さんの消息

今回は昭和21(1946)年の瀬長亀次郎氏の消息を追跡します。このとき瀬長さんは「田井等市の総務課長から糸満市地方総務(市長職)の仕事をやっていた(瀬長亀次郎回想録)」、さらに「ウルマ新報」に入社、そして社長に就任、そして沖縄諮詢会の諮問機関として発足した沖縄議会の議員に任命されています。大雑把に言えば地方公務員&会社社長&議員を兼任しているという、いささかややこしい経歴ですが、そのあたりが戦後の混乱期を象徴しているような感じがします。

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史料 浦崎康華氏の「新沖縄建設大綱(私案)」

今回は戦後史料の一つとして、浦崎康華(うらさき・こうか)氏の「新沖縄建設大綱(私案)」を掲載します。その前に「浦崎康華って誰?」と突っ込まれそうですが、この人物は沖縄人民党の初代委員長で、人民党の宣言、綱領の原案を作成したことで知られています。

生まれは 明治30(1897)年那覇の泊、長年ジャーナリズムに携わってきた新聞人で戦時は国家総動員事務も担当しています。『新沖縄建設大綱(私案)』が作成されたのは沖縄戦中の昭和20年5~7月の間で、浦崎氏が捕虜として収容されていた高江洲市で作成されました。今回は昭和58(1983)年に刊行された「戦争と平和の谷間から」 291~303㌻ に掲載されていた全文を抜粋しました。読者の皆さん是非ご参照ください。

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仕方ない書評

12月25日の日刊ゲンダイDIGITALに掲載された、朝日新聞論説委員の高橋順子氏のインタビューがネット上で絶賛大炎上しています。その原因がインタビュー冒頭の部分、「新聞記者は、ウラを取って書けと言われるが、時に〈エビデンス?ねーよそんなもん〉と開き直る。政治部次長だった時に書いた朝日新聞社のコラム「政治断簡」をまとめた著書『仕方ない帝国』(河出書房新社)が評判だ。」の部分です。ちなみにエビデンス(evidence)の意味は大雑把に言って、「確固たる証拠、裏づけ」になります。果たして裏づけ(エビデンス)なしで本当に記事を書いていたのか、興味を持ったブログ主は早速ですが『仕方のない帝国』を入手して呼んで見ました。

〈エビデンス?ねーよそんなもん〉の部分は19㌻の中にありまして、その前後の部分を抜粋すると、

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史料 忘れられた島 – 沖縄

今回は昭和24年(1949)12月3日に『うるま新報』に掲載された記事「タイム誌記者の見た占領下四年後の沖縄」の全文を掲載します。昭和24年10月に沖縄に赴任したジョセフ・R・シーツ少将の時代になって初めて米人記者が沖縄を自由に取材することが出来、その時来島した記者が「忘れられた島 – 沖縄」のタイトルでタイム誌に掲載したものになります。

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上り日ど拝みゆる、下り日や拝まぬ

以前当ブログで掲載した翁長助裕さんの論文の記事が予想の斜め上を行くアクセス数を獲得し、ブログ主は大いに驚いた次第であります。Facebook ページで賀数仁然さんはじめ多数の“いいね”の反応があり、50年前の論文とはいえ現代の沖縄県民も“うちあたい”しているんだなと実感せざるを得ませんでした。

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翁長助裕さんが指摘した沖縄の人たちの欠点

ここ数日、ブログ主は伊波普猷先生の論文、「沖縄人の最大欠点」を読んだのがキッカケで、各時代における識者が指摘する沖縄県民(あるいは沖縄県人、琉球人)の欠点についてあれこれ調べていました。ちなみにブログ主は現在の沖縄県民の大欠点の1つは“テーゲーとシムサの発想にある”と仮定していますが、この件については後日記事を掲載する予定です。今回は1960年代の琉球新報に掲載された2つの論文を紹介します。

執筆者は翁長助裕(おながすけひろ)氏で、現沖縄知事の雄志氏の兄にあたります。法政大学大学院を卒業後に琉球新報に掲載された論文ですが、当時の沖縄の人たちの欠点を実に見事に指摘しています。50年後の今日も通じる面がありますので、読者の皆さんご参照下さい。

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