ご存じのとおり当運営ブログでは、今年の4月21日から「ロックとコザ」の川満勝弘編(愛称:カッちゃん)を不定期連載しています。ただし、カッちゃんの証言は時系列があいまいなところがあるので、これまた不定期ながら沖縄県立図書館に出向いて、裏付け史料を集めています。その際についうっかり沖縄ヤクザなど複数のじわじわくる記事を発見したりするわけですが、今回は「ロックとコザ」の喜屋武幸雄編からきわめて興味深い証言と、その裏付け(らしい)史料を見つけましたので、(時効だからいいだろうと思いつつ)当ブログにて紹介します。
沖縄ヤクザ関連
「功」から「勲」から「功」へ
去年の大晦日に “「勲」から「功」へ” と題した記事をアップし、その中で羽地功さんの経歴について言及しました。その中で「もしかしてご存じの方もいるかもしれませんが、旭琉会には八重山出身の大物がいます。その名は羽地功さんで、ブログ主が確認した限り、昭和47年3月8日付琉球新報夕刊3面記事が彼の全琉デビューになります。」と言及しました。
金城正雄さんの謎 – 番外編
ご存じの通り、当運営ブログでは故川満勝弘さんの証言(ロックとコザ)を掲載してますが、彼の証言の裏付け史料を探しているうちに、ついうっかり沖縄ヤクザ関連の新鮮なネタをゲットしてしまいました。
ロックとコザと “納税”
先月21日から「ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編」と題して、故川満勝弘さんの証言を写本し、当ブログにて公開していますが、その過程でいろいろな “気づき” があったので、試しに記事としてまとめてみました。
新城喜史さんについて知っていること
今回は、ブログ主からのちょっとしたサービスで、これまで蒐集した新城喜史さん関連の史料の一部を公開します。ちなみにブログ主が想定する彼のイメージは、“悪いアントニオ猪木” ですが、その心は ① 人相に特徴がある。② 人当たりがよく誰からも好かれるタイプ。③ただし、思いつきで行動する傾向が強いので、周りに迷惑をかけてしまうでしょうか。
アメリカ世のギャング・スター
最近、当ブログの運営に関し、「沖縄ヤクザネタの成分が不足している」との指摘(というか禁断症状)が一部読者から散見されるようになりました。改めてチェックすると、今年の1月15日を最後にアシバー関連の記事は掲載されていないため、今回はブログ主が蒐集した史料の中から、満を持して新城喜史さんネタを紹介します。
骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■5■ / 壊滅作戦
多和田会長射殺事件は犯人2人の早期逮捕と県警の厳重な警戒体制が功を奏して、今のところ内部抗争に発展する気配もなく、事態はいちおう沈静化の方向に動き出したようだ。しかし暴力をバックにした不法集団内部の陰湿な権力闘争によって、県民の受けた迷惑は計り知れない。
おクスリとオキナワ
早いもので、当ブログが運営開始してから、今年(令和05年)で7年目となります。「よくここまでネタがあるもんだ」と軽い驚きを覚えつつ、今年度も調子に乗って記事を配信しますので、ご愛読の程よろしくお願いいたします。
なお、第1回目の記事は、毎年恒例の “沖縄ヤクザ関連” になりますが、今年はちょっと重い内容ですので、読者のみなさん、気合を入れてご参照ください。
「勲」から「功」へ
当運営ブログもおかげさまで来年は7周年目を迎えます。試行錯誤を繰り返しながらもなんとか7年目にこぎつけた感じですが、実は2年目あたりからカルト的人気を誇る分野が誕生しており、今日に至っております。
それは読者の皆さまご存じの通り、「沖縄ヤクザ関連」です。そして、これまでに自他ともに認める良質のコンテンツを配信し続けてきたわけですが、本日改めて過去記事をチェックしたところ、今年度は19記事を配信していました。ちょっともったいないので “20” というキリのいい数字で今年度を終わりたく、急遽ヤクザネタをアップしますのでご了承ください。
俺が調子に乗って “旭琉會” の現状を予測してみた件
令和04年07月21日付琉球新報13面【全面広告】に、故富永清旭琉會会長の奥様の “お悔やみ広告” が掲載されていました。試しに友人代表をチェックしたところ、永山克博暫定代表をはじめ、故富永会長とゆかりの深い人物が上位に名を連ねています。
金城正雄 – まとめページ
今年の6月30日から数回にわたって金城正雄(三代目旭琉会金星一家総長)関連の記事を数回にわたってアップしましたので、読者の便を図るためにまとめページを作成しました。
金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 又吉世喜(3)
(続き)復帰後にも心配された本土ヤクザの進出もなくて、結成から3年半ほどが無事に過ぎて、ホッとしていたときに上原勇吉の事件が起きたんです。
じつを言うと、勇吉と私は親しい間柄だったんです。もう1人、山原派の理事の座安久市と3人でよく飲みに行って、いろんな話をしたもんです。勇吉と座安の2人がターリーから1000ドル、私がスターさんから1000ドルもらって、3人で遊技場を経営することにもなってもいたんです。
金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 又吉世喜(2)
(続き)金城「スターさんは沖縄のヤクザの世界を守った人です。そして、そのために命を落としたんですよ。あの人を亡くしたことは大きな痛手でしたが、戦中から戦後にかけての沖縄はそういう血をたくさん流さなければならなかったんです。そういう犠牲なくして、沖縄人は生きてはいけなかったんです。命がけで守らなければ沖縄社会はヤマトンチュー(本土人)のものになってしまった。スターさんの死はそういう犠牲の一つなんです。
金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 又吉世喜(1)
(続き)那覇派はコザ派よりはかなり遅れて、昭和35年ごろにようやくまとまりを見せたのであるが、首領としてそれを率いたのが、通称「スター」こと又吉世喜だった。
那覇派の母体は空手道場の門下生のグループで、「戦果アギャー」が主体のコザ派とは性格を異にする。どちらかといえば沖縄の武芸者集団といった色合いがあり、コザ派よりも保守的で、本土ヤクザとの交流もまったくなかった。
金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 田場盛孝、喜屋武盛一、多和田真山
(続き)那覇派幹部の田場盛孝が、組員約70人を率いて那覇派を離れ、宜野湾市普天間に普天間派を結成したのは、昭和39年4月のことだった。
田場は元は米軍のトラックの運転手をしていて、「戦果アギャー」のリーダーだった。だから、立場としてはコザ派に近かったのだが、彼は喜舎場朝信とも新城喜史とも折り合いがわるかったので、コザ派には加わらなかった。