沖縄ヤクザ関連

組織暴力団 – 火を吹く抗争 まとめページ

昭和52(1977)年5月20日付琉球新報11面から10回に渡って連載された特集記事 “組織暴力団 – 火を吹く抗争” のまとめページを作成しました。

ちなみにこの特集記事が掲載されたきっかけは、同年5月18日に那覇市牧志の十貫瀬で発生した旭琉会組員による射殺事件です。同年3月から旭琉会による上原組・琉真組に対する襲撃事件が頻発するようになり、その流れで射殺事件が起こったわけですが、さすがにこの事件は沖縄県警および世論の怒りを買います。

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組織暴力団 – 火を吹く抗争 ③ 抗争事件の底流〈下〉

沖縄連合旭琉会が結成されたのは昭和45年12月8日。沖縄は念願の祖国復帰を目前に控え、各界の復帰対策が進められていた。組織暴力団も例外でなく、復帰対策を練った。その結論が沖縄連合旭琉会の結成だった。これまで血なまぐさい対立抗争を繰り返してきた那覇派と山原派が過去のことをすべて水に流し、大同団結、復帰後予想される本土広域暴力団の沖縄進出を阻止することになった。

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組織暴力団 – 火を吹く抗争 ② 抗争事件の底流〈上〉

暴力団抗争事件の底流にあるのは何か。ひとつひとつの抗争事件が、次の事件へのいきがかりとなり、さらに新たな事件の引き金となっていく。報復が報復を呼び、憎しみだけがどす黒い血となって流される。

互いの憎悪が抗争事件を次から次へと生み出しているが、その本当のきっかけは県警もつかんでいないようだ。結局、抗争事件の現象から推測するほかはない。

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イッターカラ・サチニ・クルサイヤー

そういえば先ほど気がついたのですが、昭和52(1977)年の同日、琉球新報朝刊および夕刊に旭琉会組員による琉真会アジト襲撃事件が大々的に掲載されていました。

沖縄ヤクザ史上に残る “警官狙撃事件” で、事件直後に斉藤隆県警本部長が記者会見で、「しかし今後は暴力団が発砲して来たら、撃ち殺しても構わないと指示した」と公言したことでも有名ですが、それ以上にブログ主が驚いたのは、

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組織暴力団 – 火を吹く抗争 ① 過熱する銃撃戦

再び火を吹く暴力団抗争事件。「殺(や)られる前に殺れ」「殺やれたら殺り返せ」とばかりに短銃を乱射、抗争事件に全く無関係な一般市民をふるえあがらせている。ビルの事務所に実弾が撃ち込まれたり、民衆をねらい撃ちするなどその傍若無人の武力抗争はエスカレートするばかりだ。ところかまわず乱射する凶弾に市民が巻きぞえ食わないとだれが保証できるだろう。頼りとする警察の「暴力団壊滅作戦」も後手続きで効果はさっぱり。市民の不安はつのるばかりだ。この狂気の抗争はいったいいつまで続くのだろうか

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全国指名手配第一号

今回はブログ主がコピーした沖縄ヤクザ関連の史料から、復帰後に沖縄県警が全国指名手配第一号として殺人容疑で手配された人物の記事を紹介します。

昭和42(1967)年5月14日に山原派・那覇派と普天間派の対立の中で、(普天間派の)最高幹部である田場盛孝の自宅が襲撃され、そのどさくさで普天間派の組員が死亡した事件があります。その詳細は後日紹介するとして、先ずは記事全文をご参照ください。

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伸びる “黒い手”

昭和の沖縄のぶっそうな常識のひとつに、「タクシーに乗った際には暴力団の話はするな」があります。その理由はお察しかと思われますが、暴力団関係者が経営しているタクシー会社が存在することは沖縄社会における公然の秘密だったからです。

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上原一家の解散声明

今回は昭和49(1974)年9月20日の集団リンチ事件に端を発した旭琉会と上原組の抗争(第四次沖縄抗争)に関連して、同年10月5日付琉球新報夕刊3面に上原組の解散に関する記事が掲載されていました。はっきり言って突っ込みどころ満載の内容でしたので記事全文を紹介します。

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喜舎場さんは暴力団ではない – 心のきれいな人

今回は、昭和38(1963)年10月21日から始まった喜舎場朝信(当時41歳)にかかる殺人未遂、証人脅迫事件の公判に関するエピソードを紹介します。この裁判に関連する新聞記事をチェックして印象的なのが、喜舎場さんに対する世間の風当たりの強さです。

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