今回は軽い気持ちで、平成30年度版“うちなー高齢者あるある”を書き綴ってみました。ちなみに昭和25年(1950年)前後の第一次ベビーブームに生れた世代(つまり70代後半)を念頭においています。実際にどれだけあてはまるか、よろしければ読者の皆さん是非ご検討ください。
日共の対琉要綱 – 沖縄タイムスの社説
今回は昭和29年(1954年)8月30日に米国民政府から公表された『日共の対琉要綱』に対する沖縄タイムスの社説を掲載します。なお琉球新報は冷静な論評を掲載していた印象がありますが、沖縄タイムスの記事は辛辣そのもので、おそらく読者の皆さんもびっくりするかと思われます。
沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた – その2
以前、沖縄ヤクザに関するエピソードを当ブログにて紹介しました。この記事は予想の斜め上をいく反響があり、調子に乗ったブログ主が現時点で蒐集したエピソードを掲載します。ちなみに沖縄ヤクザの歴史に興味を持った理由はただひとつ、以前にも指摘しましたが大日本帝国時代にはアウトローを束ねる組織がなかったからです。
日共の対琉要綱 – 琉球新報の社説
これまで当ブログにて昭和29年(1954年)8月30日に米国民政府(USCAR)から発表された『日共の対琉要綱』について記事にしました。当時の地元紙(沖縄タイムス、琉球新報)にこの対琉要綱に関する社説等が掲載されていましたので、しばらく数回にわたって史料として掲載します。
沖縄水産は復活できるのか
先日(6月24日)、ブログ主はコザしんきんスタジアムにて開催された第100回全国高校野球選手権記念沖縄大会〈2日目〉を観戦してきました。目当てはもちろん第3試合の沖縄尚学vs沖縄水産の試合で、当日バックネット裏はほぼ満席の状態、主催者によると5000人以上が詰め掛けたとのこと。試合結果は翌日の沖縄タイムスより抜粋しますので是非ご参照ください。
昭和の終わりを実感したお話
先日、ブログ主は “沖縄B級ポータル-DeeOkinawa(でぃーおきなわ)” という有名な Web サイトを除いたところ、”さようなら北谷のジンギスカン”の記事が掲載されていることに気がつきました。
北谷町砂辺にある(主に)米人向けのジンギスカン店で、そういえば復帰後の沖縄にはこの手の焼肉店が多かったなとおもいつつ、実際に訪れてみました。北海道のジンギスカンとはまったくスタイルが違いますので、読者のみなさん是非ご参照ください。
ひさびさに公の場に姿を見せたお話
本日(6月22日)19時から嘉手納町商工業研修等施設において“沖縄県横断キャラバン世直し庶民の会”が開催されるとの情報を得ていたブログ主、せっかくの機会なのでひさびさに公の場に姿を見せることにしました。我那覇真子さん等の活動については事前にある程度情報を得ていたので、どのようなお話をされるかおよその予測はついていましたが、実際に同月17日に浦添市における彼女たちのポスティング活動の様子を(影ながら)観察をして、そのときの雰囲気がよかったのを目の当たりにしたのが決め手になりました。早速ですが会合参加のレポートを掲載します。読者のみなさん是非ご参照ください。(今回の記事は主催者の許可を得て記事を掲載します)
日共の対琉要綱 – その4
昭和29年(1954年)8月30日、米国民政府から発表された「日共の対琉要綱」は当時の沖縄社会に衝撃を与えます。そして翌日以降の地元紙(琉球新報、沖縄タイムス)には共産主義の脅威を警戒する旨の社説等を掲載しました。ただしこの指令書とやらはブログ主が思うには実に出来が悪く、本当に日本共産党からの指令か否か判断がつきにくい部分もあります。理由はいやしくも公の政党たるもの中二病を拗らせているとしか思えない人物が書きそうな文章を本気で書くとは思えなかったからです。
実際に沖縄人民党も「これはでっちあげ」と主張していて、正直なところこっちのほうが信憑性あるのかなと考えていたのですが、同年10月19日、米国民政府および琉球政府宛に日本共産党から送られた文書を読んで考えを改めざるを得ませんでした。10月20日付琉球新報の記事から該当の部分を抜粋しますので、是非ご参照ください。
【暫定】不屈さんの黒歴史で打線を組んでみた
現在ブログ主は「日共の対琉要綱」に関連する史料をチェックして記事を掲載していますが、これまで蒐集した “不屈さんフォルダー” のデータを再確認したところ、これまで(公式では)語られることのなかった逸話?が多数ありましたので、今回は軽い気持ちで彼のエピソードで打線を組んでみました。
個人的には人間らしいエピソードと思いますが、信じる信じないは読者の皆様にお任せします。では早速ですがご参照ください。
史料 – 喜友名の獅子群
平成27年(2015年)11月22日発行『喜友名誌 ちゅんなー』より石獅子群に関する記述がありましたので抜粋します(89~95㌻)。さすがに地元自治体の人達が編集・敢行しているだけあって、詳細かつ興味深い記述になっています。是非ご参照ください。アイキャッチ画像はブログ主撮影時点(平成30年6月18日)の 徳伊礼小(トゥクイリグァー・メー)の石獅子です。
【地元散策】宜野湾市喜友名(きゆな)の石獅子群巡りをしてきたお話
先日(6月18日)、唐突ではありますがブログ主は我が宜野湾市喜友名にある石獅子群をチェックしようと思い立ち、今回はそのときの散策記事を掲載します。
ちなみに平成27年(2015)に喜友名区自治会から発行された地元史『喜友名誌 ちゅんなー』によると、これら石獅子は「村落獅子」に分類、喜友名集落が碁盤型集落になったのは1737年以降のためおそらく18世紀ごろに作られたのではと記載があります。喜友名の石獅子に関する詳細な説明は後日史料として当ブログで掲載しますので、今回は先に7対のシーサーめぐりの記事をアップします。地元史好きの読者のみなさん、是非ご参照ください。
日共の対琉要綱 – その3
前回記事において、昭和29年(1954年)8月31日および同年9月1日付琉球新報に掲載された『日共の対琉要綱』の全文を掲載しました。当時の沖縄マスコミにはこの案件に関する社説などの記事が掲載されていましたが、この件に関しては後日改めて当ブログにて史料としてアップします。今回は「日共の対琉要綱」前文を読んだブログ主の感想を掲載します。
日共の対琉要綱 – その2
前回当ブログにおいて、米国民政府(USCAR)が発表した『日共の対琉要綱』の前半部(1~29項)を紹介しました。今回は後半部(30~54項)を掲載します。ちなみになぜ米国民政府が日本共産党の対琉指令と思われる書類を公開したのかを考えてみたところ、その理由はただひとつ「琉球政府に防共法を制定してほしい」意向があったからです。そのあたりの流れをブログ主が調子に乗って図解しましたのでご参照ください。
日共の対琉要綱 – その1
先日ブログ主は、宮里松正(みやざと・まっしょう)著『米国支配27年の回想』を参照中、46㌻に次のような記載がありました。
54.08.30 米国民政府のディフェンダーファー情報敎育部長は、記者会見で、「人民党が日本共産党と気脈を通じて行動していることは明らかであり、そのことは、日本共産党の指令とも符合する」と述べ、日共の指令「日共の対琉要綱」を公表した。
そこで実際に当時の新聞(琉球新報、沖縄タイムス)および仲宗根源和著『政界診断書』を照合して、全54項からなる指令書とやらを確認することができました。当ブログにて史料として提供しますので、興味がある読者の皆さん是非ご参照ください。
ただし解りにくい部分が多かったので、(小かっこ)の部分は説明を、〔きっこうかっこ〕の部分は捕捉をブログ主の判断で挿入しました。全54項は長文なので(文章の)区分けは琉球新報のそれに従って掲載します。最後に予備知識として、畠義基著『真相はこうだ』から人民党事件(昭和29年10月)当時の沖縄人民党と日本共産党との関係を掲載しておきます。
平成22年興南高校野球部の隠れた偉業
今年は全国高等学校野球選手権の第100会大会が開催されます。高校野球100年にちなんで沖縄タイムス紙上でも『球児たちの1世紀』の企画コラムが絶賛掲載されていますが、6月7日付第32回目に平成22年(2010年)の興南高校の軌跡についての記事がありました。このチームの偉業については語りつくされている感がありますが、実はひとつだけ(おそらく誰も)気がついていない点があります。実はこのチームは沖縄の高校野球の歴史上はじめて和歌山県勢に勝利したチームなのです。








