少し前に当ブログで “りうきうにおける神権政治” についての記事をアップしましたが、今回はそのついでにりうきう社会におけるユタについて言及します。
その前にブログ主なりにユタを定義すると、大雑把には “民間から自然発生した神に操られる者たち” で、この点が重要ですが彼ら(あるいは彼女らは)琉球王国時代の神女組織とは(原則として)独立した存在だったのです。参考までにりうきう社会の神女組織について、伊波普猷著『ユタの歴史的研究』を参考にまとめてみると、
少し前に当ブログで “りうきうにおける神権政治” についての記事をアップしましたが、今回はそのついでにりうきう社会におけるユタについて言及します。
その前にブログ主なりにユタを定義すると、大雑把には “民間から自然発生した神に操られる者たち” で、この点が重要ですが彼ら(あるいは彼女らは)琉球王国時代の神女組織とは(原則として)独立した存在だったのです。参考までにりうきう社会の神女組織について、伊波普猷著『ユタの歴史的研究』を参考にまとめてみると、
前回アップした “【島津入り】りうきうはなぜ薩摩に敗れたのかの考察 “がブログ主の予想の斜め上を行く反響を呼んだので、今回は理解の補足資料として神権政治(シオクラシー)について言及します。
ちなみに現代のうちなーんちゅは日常生活において “神” を意識する機会がほとんどありませんが、古りうきう民の神概念を考察すると、大雑把ではありますが下図のようにまとめることができます。
当ブログを運営してから5年以上経過しましたが、今回はこれまで一度も取り上げたことのない事例について言及します。読者の皆様はご存じかもしれませんが、琉球・沖縄の歴史的大事件である “慶長の役(薩摩の琉球侵攻)” と “沖縄戦” について専門記事はおろか関係資料も配信したことはありません。
今回はネット上で “炎上芸人” として認知された感がある阿部岳記者(沖縄タイムス社)の言動は “なぜ笑いを取れるのか” についてまじめに考察します。
(続き)前の記事で廃藩置県以前の琉球社会には(一部の例外を除いて)結社の概念がなかったことを説明しましたが、今回は補足として女性たちの世界についても言及します。女性たちの世界の代表的なものに辻町、仲島、渡地(わたんじ)などの花街と那覇東町を代表とする市場があります。
ネトウヨという言葉があります。ご存じのとおりネット右翼の略語ですが、Wikipedia などを閲覧しても定義がいまいちピンとこないブログ主は、今回調子に乗ってネトウヨの定義づけを試みました。
ネトウヨの定義づけが難しいのは、各人がおのおのの価値観で定義しても、それが結果的に汎用性を持たない状態になっているからです。そこで今回はネトウヨの対義語は何かを考えて、そこから定義づけを行ないます。
(続き)琉球・沖縄の歴史を俯瞰すると、意外に思われるかもしれませんが、廃藩置県以前のりうきう社会には “結社の概念” を(もちろんゼロではありませんが)見つけることが非常に難しいです。その前に結社について定義すると “目的を達成するために結成された機能集団” のことであり、成立のために条件として
今回から数回にわたって古琉球から戦前の琉球・沖縄社会にヤクザが存在しなかったかをまじめに考察します。ご存じのとおり、琉球・沖縄の歴史において反社会的勢力が階級を作り上げたのは昭和20年(1945)以降で、それ以前の社会ではヤクザが存在する余地はありませんでした。沖縄社会にヤクザが存在しなかったことに関して、以前当ブログでも取り上げましたが、宮城嗣吉(みやぎ・しきち)さんの証言を再掲載しますのでご参照ください。
“戦前の沖縄にはやくざがいなかった”
ブログ主が初めてこの事実に気が付いたのは大城立裕著『沖縄歴史散歩』を読んだときですが、その後いろいろな史料に目を通すうちに、意外なところから上記の事実を裏付ける記述を見つけました。
県民の間では周知の事実ですが、我が沖縄においては高齢者になればなるほど差別的言動が激しくなります。この案件はしょうがない部分があって、戦前のムラ社会の名残りとも言えますが、その主因はやはり琉球・沖縄の歴史において “社会慣習として平等観念が一度も生まれてこなかった” ことにあります。
ここ数日、県内マスコミ等で “ヘイトスピーチ” に関する記事が散見されるようになりました。Wikipedia によるとヘイトスピーチ(憎悪表現)とは「人種、出身国、民族、宗教、性的指向、性別、容姿、健康(障害)といった、自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである」と記述されていますが、一種の “差別言動” と看做して間違いありません。
(続き)ブログ主にしてはめずらしく15世紀の琉球をテーマにした “巴志” の考察記事を提供する際、以前から強調しているとおり史料をチェックする際に儒教のセンスを意図的に頭から取り除く、いわゆる “朱子学フィルター” を設定して読み解く方法を用いています。
今回はその理由の一つを紹介します。ためしに喜舎場朝賢著『東汀随筆』に掲載されていたお話を書き写しましたので読者の皆さん是非ご参照ください。
今回は前回の記事”佐敷のタックルサー考”の続きで、巴志さん(と愉快な群臣たち)が大里を領有後に今度は首里に向けて進撃する様を『球陽』の記述を主として考察します。
前回”黑いりうきうルネサンスの時代”と題して尚敬王時代(1713~1751)の暗黒面について言及しましたが、本来は巴志(1372~1439)の足跡を調べるため『球陽』などチェックしている際に素でエグい記述を見つけたので、ついでにまとめ記事を作成しています。今回は本題である巴志についてブログ主なりに言及します。
平成28(2016)年5月から運営を開始した当ブログですが、気がついたらあっという間に4年が経過し、まもなく5年目に突入します。琉球・沖縄という地域史のジャンルの中で予想の斜め上をいく新たな発見の連続があり、そして当初の目標である1000記事発信が現実味を帯びてきました。