“戦前の沖縄にはやくざがいなかった”
ブログ主が初めてこの事実に気が付いたのは大城立裕著『沖縄歴史散歩』を読んだときですが、その後いろいろな史料に目を通すうちに、意外なところから上記の事実を裏付ける記述を見つけました。
“戦前の沖縄にはやくざがいなかった”
ブログ主が初めてこの事実に気が付いたのは大城立裕著『沖縄歴史散歩』を読んだときですが、その後いろいろな史料に目を通すうちに、意外なところから上記の事実を裏付ける記述を見つけました。
県民の間では周知の事実ですが、我が沖縄においては高齢者になればなるほど差別的言動が激しくなります。この案件はしょうがない部分があって、戦前のムラ社会の名残りとも言えますが、その主因はやはり琉球・沖縄の歴史において “社会慣習として平等観念が一度も生まれてこなかった” ことにあります。
ここ数日、県内マスコミ等で “ヘイトスピーチ” に関する記事が散見されるようになりました。Wikipedia によるとヘイトスピーチ(憎悪表現)とは「人種、出身国、民族、宗教、性的指向、性別、容姿、健康(障害)といった、自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである」と記述されていますが、一種の “差別言動” と看做して間違いありません。
(続き)ブログ主にしてはめずらしく15世紀の琉球をテーマにした “巴志” の考察記事を提供する際、以前から強調しているとおり史料をチェックする際に儒教のセンスを意図的に頭から取り除く、いわゆる “朱子学フィルター” を設定して読み解く方法を用いています。
今回はその理由の一つを紹介します。ためしに喜舎場朝賢著『東汀随筆』に掲載されていたお話を書き写しましたので読者の皆さん是非ご参照ください。
今回は前回の記事”佐敷のタックルサー考”の続きで、巴志さん(と愉快な群臣たち)が大里を領有後に今度は首里に向けて進撃する様を『球陽』の記述を主として考察します。
前回”黑いりうきうルネサンスの時代”と題して尚敬王時代(1713~1751)の暗黒面について言及しましたが、本来は巴志(1372~1439)の足跡を調べるため『球陽』などチェックしている際に素でエグい記述を見つけたので、ついでにまとめ記事を作成しています。今回は本題である巴志についてブログ主なりに言及します。
平成28(2016)年5月から運営を開始した当ブログですが、気がついたらあっという間に4年が経過し、まもなく5年目に突入します。琉球・沖縄という地域史のジャンルの中で予想の斜め上をいく新たな発見の連続があり、そして当初の目標である1000記事発信が現実味を帯びてきました。
今回は昭和に限定して、本土と沖縄の暴力団組織の違いについて言及します。本土のヤクザ映画などの主要なテーマのひとつに”兄弟間の相克”がありますが、実は沖縄ヤクザをモデルにすると兄弟対立を主とした物語を描くことができません。なぜそうなるのかをブログ主なりに説明しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
前回の記事で”万国津梁の碑文”についてブログ主なりに説明しました。今回はなぜ尚泰久王が仏教に”ハマったか”について考察します。
ちなみに尚泰久王は明暦景泰5年(1454年)、46歳の時に即位して、1460年に亡くなっています。その間に建立した寺院の一覧は下記参照ください。
今回はちょっとまじめに”万国津梁の鐘の碑文”について言及します。あくまでも現時点における”仮説”ですが、『球陽』と碑文を照らし合わせてみると興味深いことに気がつきましたのでまとめてみました。
その前にこの碑文について言及すると、我が沖縄においてはあまりにも有名な一節
ここ数日、当ブログのアクセス数が異常な伸びを示していたので、Google Analytics を使ってその原因を探ってみました。どうやら令和元年8月26日の沖縄タイムス電子版の記事がきっかけで、当ブログの該当記事にアクセスが集中したようです。
以前、当ブログにて我が沖縄社会は血縁を通じてカリスマが継承されるという考え方がないことについて言及しました。その際になぜ血縁カリスマの発想が生まれなかったかについては触れませんでしたが、偶然にもその理由のひとつに気が付きましたので今回記事に纏めてみました。
近年インターネットスラングから一般的に認知されつつある用語に上級国民があります。平成28年(2015年)7月に端を発した東京オリンピックのエンブレム騒動がきっかけですが、平成31年(2019年)4月19日に池袋で発生した悲惨な交通事故に対するマスコミ報道がこのネットスラングを結果的に拡散させてしまうことになりました。
今回は沖縄社会における血縁とカリスマについて言及します。タイトルの「血縁が担うカリスマ」という語句は聞きなれないかもしれませんが、大まかに説明すると血縁を通じてカリスマが継承される思考になります。もちろん血縁とカリスマは独立した概念であって、血のつながりによってカリスマが保持されるという考え方は一見すると奇妙に思えるかもしれません。だがしかし、昭和の日本社会にはこの発想が散見されたのです。
今回は “琉球開闢” について言及します。というのも当ブログ開始から2年強、おかげさまで配信記事も550を超えましたが、そのなかで琉球神話を取り上げたトピックがひとつもないことに気が付きました。歴史ブログを運営している以上、琉球神話に触れないとさすがにまずいかなと思い、今回ちょっとした考察記事を纏めてみました。まずは羽地朝秀編纂『中山世鑑』から琉球開闢に関する記述を紹介します。ただし原文は読みづらい部分があるので、比嘉朝潮著『沖縄の歴史』からの現代語訳を掲載しました。読者のみなさん、是非ご参照ください。