現代史いろいろ

「喜舎場朝信を救う会」について調べてみたよ

先日(4月29日)に公開した記事、“沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた”がブログ主の予想の斜め上を行く反響でしたので、今回も調子に乗って沖縄ヤクザ関連の記事を掲載します。前回の記事において(個人的に)一番衝撃だったエピソードに、昭和38年2月に「喜舎場朝信を救う会」が開催された件がありますが、実際に当時の新聞を調べたところ本当にあったので、今回は書き写し分を掲載します。(注、月間沖縄では開催日が2月13日とあるが、琉球新報では2月14日午後3時となっています。開催場所がコザ市照屋の区民館(公民館)であることは一致。)

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理性を失った人たちの姿

ここ最近ブログ主は“教公二法”関連の史料集めを行っています。不定期に図書館等に通って当時(昭和42年)の新聞や関係著書をチェックしているのですが、その中に興味深い記事がありました。教公二法に関しての詳細は後日アップすることにして、今回は昭和42年2月25日の琉球新報のコラムの書き写しを掲載します。

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おまけ 辻政信氏失踪事件に関する記事

先日昭和53年(1978)10月の県内二紙(琉球新報、沖縄タイムス)を調べていたところ、辻政信失踪事件に関する記事が掲載されていましたので、ついでといっては何ですが当ブログにて書き写しをアップします。真偽は不明ですが、一般紙が事件について大々的に掲載している点が実に興味深いです。読者の皆さん是非ご参照ください。

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「だから何?」って感じ

平成30年(2018年)4月23日の沖縄タイムス(社会 – 26)に以下の記事が掲載されていました。全文を書き写しましたので読者の皆さん是非ご参照ください。

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昭和53年10月21日(土)の琉球新報〈金口木舌〉

先日(4月15日)掲載した記事 “非武装、中立あり得ぬ”が予想以上の反響でしたので、今回も昭和53年10月22日の鄧小平副首相(当時)来日関連の史料を掲載します。この件に関する前日(10月21日)の琉球新報の論説が実に興味深い内容です。沖縄タイムスに関してはまだチェックしていないので、機会があれば後日当ブログにてアップする予定です。

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非武装、中立あり得ぬ

昭和53年(1978年)10月以降の琉球新報をチェックしたところ、鄧小平副首相訪日(22日)とそれに関する記事が複数掲載されていました。一番興味深いのが11月2日夕刊一面に掲載された廖承志(りょう・しょうし)中日友好協会会長のインタビュー記事です。この記事を読むと中国側のほうが現実感覚に優れ、日本の一部知識人の現実感覚のなさが浮き彫りになっていて、「当時も今も状況はあまり変わっていないな」と思わざるを得ませんでした。

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教員は中立犯さない

現在ブログ主は、昭和42年(1967年)における「教公二法関連」の当時の新聞や回顧録等を調べています。沖縄県立図書館(現在郷土資料室のみ利用可)では当時の新聞が閲覧できますし、ブログ主自身でも回顧録等を購入してできる限りの資料集めに奮闘していますが、その中で貴重な証言を見つけましたので今回の記事にて紹介します。

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史料 – ウルマ新報誕生の経緯(島清さんの証言)

今回は、瀬長亀次郎さんの足跡をチェック中に発見、『琉球新報80年史 – 新聞にみる沖縄の世相』の通史篇に記述されていたウルマ新報誕生の経緯を掲載します。それはウルマ新報初代社長島清(しま・きよし 1908~1997)さんの証言で、非常に興味深い内容になっています。

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俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その4

前回まで普天間第二小学校の誕生の経緯と、移転計画が断念した流れについて説明しました。今回は平成22年(2010)1月に産経新聞に掲載された記事について検証します。まず物議を醸した記事をご参照ください(現在リンク先にはアクセスできないため、Web 魚拓等からの全文掲載)。

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俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その2

前回までに普天間第二小学校が誕生した流れを簡単に説明しました。今回からは移転計画の頓挫と、校舎立て替えにいたる経緯について、公開された情報をベースに記述します。

その前に普天間第二小学校PTA新聞(第72号)に、新校舎落成の記事が掲載されていますので全文抜粋します。

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俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その1

去る(平成29年)12月13日に起こった飛行中の米軍へリの部品が普天間第二小学校へ落ちた事件に関連して、ブログ主が普天間第二小学校の歴史を調べてみましたので掲載します。普天間第二小学校の歴史(とくに移転問題)に関しては裏づけなしの噂話が多すぎるので、今回は公開された情報のみで歴史を振り返ります。

普天間第二小学校の分離開校は我が宜野湾市では初のケースで、その理由は人口の急増です。そのため昭和37年(1962)の市制施行からさかのぼって学校の歴史を鑑みるのがよいと考えます。

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