本日ブログ主は那覇市辻地区を散策してきました。実は前にも同地区はチェックしたのですが、どうしても気になる点があったので、過去のゼンリンの地図などを参照して本日再度訪れた次第であります。
結論を申し上げると、現在の辻地区はかつての華々しさは感じられず、街全体に”黄昏”を感じざるを得ません。ブログ主が撮影した辻町の現状を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
本日ブログ主は那覇市辻地区を散策してきました。実は前にも同地区はチェックしたのですが、どうしても気になる点があったので、過去のゼンリンの地図などを参照して本日再度訪れた次第であります。
結論を申し上げると、現在の辻地区はかつての華々しさは感じられず、街全体に”黄昏”を感じざるを得ません。ブログ主が撮影した辻町の現状を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
以前”【暫定】大日本帝国が沖縄に対して行った残虐非道な所業で打線を組んでみた”と題した記事を掲載したところ、予想の斜め上を行くアクセス数がありました。2番煎じになりますが、今回は沖縄戦以降のアメリカ世から復帰後の施政権者(米国民政府、琉球政府および日本政府)が我が沖縄に対して行った悪行について打線を組んでみました。
以前、ツイッターをチェックしている際に、11月13日付の沖縄タイムス社の阿部岳記者のツイートが目に留まりましたので全文を書き写します。
”尊敬する歴史家から「為政者の悪行は石碑に刻んで、100年、200年後の子どもたちに伝えるべきだ」という話を聞いた。”
この尊敬する歴史家が誰か記載はありませんが、ここはひとつブログ主が『球陽』を参照に為政者の悪行を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
先月30日から本日にかけてブログ主は沖縄市上地(なかのまち)や中央(パークアベニューや一番街など)を所用を兼ねて散策しました。前日は”帯広豚丼炭火焼とんたん”のグルメレポートを掲載しましたが、今回は街中散策レポートを紹介します。
改めて実感したのですが、沖縄市中央地区の”じわじわくる”ポイントの多さにはびっくりします。その中からブログ主が厳選?した見所をまとめてみましたので読者のみなさん是非ご参照ください。
今回も(自称)名誉若狭民であるブログ主が旭ヶ丘公園などに設置されている”石碑”について記事をまとめてみました。若狭地区の散策で始めてわかったのですが、旭ヶ丘公園付近は沖縄を代表する”石碑のメッカ”です。本来ならじっくり時間をかけてひとつひとつ紹介したいところですが、限られた時間内なので主な石碑のみ撮影してきました。読者のみなさん是非ご参照ください。
今回は那覇市若狭(わかさ)の散策結果を紹介します。旧那覇からの由緒ある地名にも関わらず”存在感の薄さ”が際立つ若狭地区ですが、その理由はやはり”波の上”の圧倒的知名度にあります。
たとえば沖縄県民なら”波の上神宮”をよく知っていますが、その所在地が”那覇市若狭一丁目”であることを知る人は少ないはずです。”波の上ビーチ”も同様で”若狭海浜公園”の中にあります。那覇市民であればご存知かもしれませんが、典型的な宜野湾民であるブログ主にとっては、
今回はちょっと趣向を変えて、ブログ主独断で尚王家の悪行で打線を作成してみました。
昔、琉球王国時代のぐう畜エピソードで打線を組んだことありますが、王家限定でもハイレベルの悪行が確認できます。上位打線が鬼畜レベルで草も生えませんが、いまから紹介するエピソードは紛れもない史実です。今回は解説はなしで淡々と事例のみ紹介しますので、読者の皆さんぜひご参照ください。もちろん異論は認めます。
今回は史跡めぐりの一環で那覇市久米を散策したところ、予想の斜め上をいく”じわじわくる”ポイントが複数見つかりましたので、ためしに記事にまとめてみました。
ちなみに旧久米村は以前は唐栄(閩人=福州出身の中国人)たちの居住地で、廃藩置県後に那覇に合併された歴史があります。琉球・沖縄においては古い歴史を持つ地区であり、いまでもその痕跡は残されています。読者のみなさん、ぜひご参照ください。
令和元(2019)年10月31日の首里城正殿および関連7棟の火災がキッカケで、ブログ主も改めて首里城関連の史料をいろいろチェックしようと思い立ちました。実は建築に関しては素人(プラスあまり興味がない)であることと、首里城に関しては語り尽され感があったので当ブログでもほとんど取り上げていませんが、今回改めて調べてみること思わぬことに気がつきましたので早速ですが纏めてみました。
首里城正殿は令和の火災を含めると5回焼失しています。1回目から3回目までは『球陽』の記載をまとめると、
前回の記事で”万国津梁の碑文”についてブログ主なりに説明しました。今回はなぜ尚泰久王が仏教に”ハマったか”について考察します。
ちなみに尚泰久王は明暦景泰5年(1454年)、46歳の時に即位して、1460年に亡くなっています。その間に建立した寺院の一覧は下記参照ください。
今回はちょっとまじめに”万国津梁の鐘の碑文”について言及します。あくまでも現時点における”仮説”ですが、『球陽』と碑文を照らし合わせてみると興味深いことに気がつきましたのでまとめてみました。
その前にこの碑文について言及すると、我が沖縄においてはあまりにも有名な一節
9月26日の文化庁報道発表「あいちトリエンナーレに対する補助金の取り扱いについて」で再燃したあいちトリエンナーレの問題、ブログ主は正直あまり興味ありませんでしたが、今月9日付沖縄タイムス1面で大々的に報じていたのをきっかけに、関連する記事をチェックしてみました。他府県の芸術祭のトラブルに関してなぜ沖縄のメディアがここまで大々的に取り上げるのか気になって調べてみたのですが、大雑把にいうと「権力側による芸術祭への干渉」という観点から纏めた記事が多数見受けられました。
つまり「権力の弾圧」をテーマに記事を配信している傾向があるのですが、はたして本当にそうなのか、ためしに文化庁報道発表の全文を書き写しましたので読者の皆さま是非ご参照ください。
今回も権力の継承をテーマにした記事を配信します。改めて第二尚氏の王位継承を調べたところ、ブログ主の予想の斜め上をいく驚きの仮説がいくつか思いつきましたので、今後の参考のために纏めてみました。
前回ブログ主作成の系図(3代尚真から7代尚寧まで)をアップしましたが、今回も試しに10代尚質王までの系図を作ってみました。読者のみなさん是非ご参照ください。
前回の記事において、源武雄さんの論文「王代記から見た尚家の家督相続」を参照にトートーメーにおける3大タブーについてブログ主なりに説明しました。今回はトートーメーのタブーを通して尚家の家督相続について言及します。
ちなみにトートーメーにおけるタブーは18世紀以降、王族や士族社会に徐々に定着したことが考えられます。理由は系図座の設立(1689年)によって王族や士族の間で”家督相続のルール”が強く意識されるようになったからと仮定していますが、今回はこの件については言及しません。18世紀以降に定着したと思われるルールを15~16世紀の王家における家督相続に当てはめて考えるのはちょっと無理がありますが、それでもきわめて興味深いことに気がつきましたので読者の皆さん、是非ご参照ください。
ここ数日ブログ主は”権力の継承の観点から見た琉球・沖縄史”のテーマでいろいろと考えていました。その理由は琉球・沖縄史において権力の継承が一番安定しているのが現代と慶長の役(1609年)から廃藩置県までの尚家支配の琉球国の時代であり、意外にも不安定だったのが廃藩置県後の大日本帝国とアメリカ世(1945~1972)の時代であることに気がついたからです。