シリーズ

閑話 人口の増加が沖縄社会に与えた影響を真面目に考えてみよう 大日本帝国の時代編

前回の記事において、日下先生が唱える「15歳から25歳の若者が全人口に占める比率が15パーセントを超えると、その国は戦争をするのである。何らかの理由で10パーセント以下に下がると、戦争は止む」の仮説を、ブログ主が実際に沖縄県の人口統計をチェックして検証しました。

統計の都合上「14歳から24歳の若者人口が全人口に占める比率が15パーセントを超えると沖縄社会に何が起こったか」を考察しました。明治12年以降、沖縄は独立国家ではなく一地方行政単位なので、戦争ではなく若者比率が急上昇すると社会にどのような影響を及ぼしたかを調べると、実に興味深いことが分かりました。先ずは明治13年から昭和にかけてブログ主が纏めた人口統計表をを貼り付けします。

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明治29年4月20日の女子講習科の入学試験

今回はブログ主が確認した限りですが、おそらく歴史上初の女子に対する選抜入試試験の内容を紹介します。

琉球・沖縄の歴史において女子が小学校へ入学したのは明治18(1885)年ですが、それから11年後の明治29(1896)年に女子講習科(速成の女子教員養成学校)の選抜入試試験が行われます。その内容が非常に興味深いので今回ブログで公開します。

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現代社会の古典離れを憂うお話 その2

Junji_Nishime

現代社会において、「若者の○○離れ」という言葉があります。マスメディアが作り出した言葉のようですが、代表的なのが「若者の車離れ」という語句ではないでしょうか。実は古典も当てはまります。昨今に出版された沖縄本を参照すると、明らかに古典の知識が欠けているなと思われる書籍が非常に多いのが気になります。

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閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その9

King_Sho_Tai

これまで長々と、明治8年(1875)5月29日の明治政府の御達書に対する松田道之と琉球藩(交渉役は主に三司官が担当)について言及しました。なぜこれ程惨い交渉になったかと言えば、国王尚泰の決断力のなさが最大の原因であることは間違いありません。補足として琉球藩の行政組織は下図をご参考ください。

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閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その8

先にフェイスブック上で、明治8年(1875)の松田と三司官との交渉をテンプレ形式でまとめて投稿しました。思った以上に出来がよかったので、一部訂正して当ブログ内でも掲載します。余談ですが大城立裕著「沖縄歴史散歩」のなかで、著者は琉球処分官として来琉した松田道之のことを絶賛していますが、ブログ主も同じ感想です。

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閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その7

我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか?の連載が意外に長引いています。本来ならその5ぐらいで終わらすつもりでしたが、琉球藩時代の当局の対日外交が余りにも稚拙なため、予定を変更して(当時の対日交渉の)失敗の本質の考察を詳細な限り行います。

前回の記事で、明治8年の5月29日の明治政府の御達書に対する琉球藩当局の対応について、

・明治政府の全権委任で来琉した松田道之のメンツを潰していること。

・二枚舌を使ったこと

の2点を厳しく批判しました。実は琉球藩当局が明治政府から委任された松田を頭ごなしにして、直に政府に嘆願しようとしたのは訳があります。ブログ主は、「琉球見聞録」に記載された松田と三司官との間の論戦において、何となくではありますがその理由を垣間見ましたので紹介します。(旧漢字はブログ主で訂正すみ)

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閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その6

明治8年(1875)5月29日の太政大臣三条実美名義での通達への対応について、当時の琉球藩庁の対日交渉はそれこそ「おバカ」の見本なので、当ブログでは反面教師の教材として可能な限り詳細に説明します。理由は当時の対日交渉の実態について、現在の沖縄県民(および他府県人)は全くといって知らないからです。おそらく「明治政府が力で無理やり琉球藩を処分した。かわいそう」ぐらいの感覚しか持ち合わせていないと思われます。

先のFacebook への投稿者もおそらく同じかと思われます。明治8年から12年の廃藩置県に至るまでの琉球藩の当局の交渉を鑑みると、とても「だから我々の御先祖は賢く外交、友好で国を栄えさせる道を選んだのだから」なんて主張ができなくなります。廃藩置県(琉球処分)に関しての現在の沖縄の歴史認識では否定的な意見が多いのですが、ブログ主はあえて肯定的に捉えています。極言すれば「こんなおバカな連中を社会の表舞台から退場させた明治政府GJ!」になりましょうか。

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閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その4

前回までの記事において、15~16世紀における琉球の対日外交を検証して、Facebook 上の投稿にあるように「賢く外交、友好で国を栄えさせる道」を実行したかをチェックしました。結論は「軍事力の裏づけのない外交には限界がある」ことになりますが、では今度は舞台を19世紀に変えて、当時の琉球王府の当局者が幕末の動乱期にどのような外交を展開したかを考察します。

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閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その3

前回の記事において、当時の琉球の対日外交が円滑かつ適宜に行われていた件を記述しました。15~16世紀における薩摩と琉球の関係は島津家曰く「貴国(琉球)と我が国は兄弟の約」とありますが、実際には対等に近い関係でした。その関係にひびが入ったのが、1570年に来琉した薩摩の使者雪岑和尚(せっしん)への応対問題です。(この事件は紋船一件の名で呼ばれることもあります)

『沖縄一千年史』、あるいは『沖縄歴史散歩』からの抜粋になりますが、事のいきさつは下記参照願います。

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閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その2

ここ数日、我がご先祖さまは本当に「賢く外交、友好で国を栄えさせる道を選んだ」のか、その長所と短所をあれこれ考えて見ました。ブログ主が考えうるに、長所はおそらく「武力を用いることに比べるとあまり費用がかからない」ことでしょうか。ご先祖さまにコストパフォーマンスの概念があったかは不明ですが、ハリネズミのように武装して外敵の侵入に備えるのに掛かる経費に比べると安上がりなこと間違いないでしょう。

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閑話 歴史に時効の概念を導入せよ その3

前回記事において、時効の概念を導入しないと当事者間の力関係によって歴史的事実が恣意的に解釈されてしまうお話をしました。ブログ主は歴史の記述にも「時効の概念」を大胆に導入すべきを考えますが、追加でもう一つ理由を述べます、それは

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