シリーズ

公同会運動の顛末 頑固党とオールおきなわ その1

前回まで長々と1896年(明治29)の公同会運動の背景について説明しました。ブログ主がこの事件に非常に興味を持ったのは、犬猿の仲であった開化党と頑固党が手を組んで政治運動を展開した意味不明さを自分なりに解釈したいという気持ちになったことと、もう1つ当時の頑固党の社会的な立場と、現代のオールおきなわ(とくに旧革新勢力)の立場が驚く程似ていることに気が付いたからです。 

社会システムも主義主張も違うので単純に比べるのも無理はあるのですが、それを承知の上で少なくとも下記の2点では頑固党とオールおきなわは共通しています。それは

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公同会運動の考察 その7

前回までに公同会運動に至るまでの社会の動きや勢力について説明しました。今回は公同会運動の狙いと、なぜ明治政府によって拒絶されたかを考察します。

公同会は王族を中心とした発起人7人(8人説もあり)で結成された沖縄初の政治結社です。首里に本部を置き、地方にも支部を設置して、会則を定め、総会や委員会の定例会を開くなど、かなり気合の入った団体でした。そして公同会のメンバーは那覇や首里の都市部だけではなく、地方にも遊説して沖縄に特別の自治制度を設置することに対する支持を呼びかけます。

公同会の趣意書を3行でまとめると

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子どもの貧困問題と教育について その2

前回の記事で、貧困の連鎖は教育によって断つことを記載しました。この発想はブログ主のオリジナルではなく、先日参加したフリースクールの講師が主張された内容で、歴史的に見るとまさにその通りなのです。たとえば琉球王国時代の構造的な貧困問題は、人口の多数を占める百姓階級に就学の機会がなかったことが一因です。

琉球王国、および大日本帝国時代の沖縄県には子供の貧困問題はありませんでした。理由は簡単で

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子どもの貧困問題と教育について その1

今回は現在何かと話題になっている子どもの貧困について記事にします。この問題に関して平成28年の沖縄振興予算にも10億円が新規計上されていましたので、内閣府および政府としても無視できない案件と考えているのでしょう。他の予算に比べると少額ですが、要望が認可されたという事実は大きいと思います。

ブログ主は教育や貧困問題に対しては門外漢ですが、歴史的に見ると子供の貧困が問題視されるようになったのは、現代が初めてではないでしょうか。琉球王府の時代を振り返ると、一部の上級士族を除いて社会全体が貧困で、そんなこと話題にも上りませんでした。

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公同会運動の考察 その6

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ここまで1896年(明治29)に元王族が中心となって公同会という政治結社を設立する時代背景について説明しました。予想通りの長い展開になりましたが、この件はやはり調べれば調べるほど複雑怪奇な内容で、現時点のブログ主のレベルではちょっと厳しいかなという状態です。

問題をややこしくしている点は、まず頑固党にも複数の派閥があることです。現在の歴史書に記載されている白頑(頑固党白派)や黒頑(頑固党黒派)や開化党の区分けは、西村捨三(第四代沖縄県知事)一木喜徳郎氏が提案した分類方法に準拠しているのですが、実際には白派にもまた2つ派閥があって、黒派に近い白派や、明治政府に対して面従腹背で時が来るのを待つ穏便派など、内部で熾烈な派閥争いがあったのです。

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公同会運動の考察 その5

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1896年(明治29)6月の爵位授与式(男爵)に於いて、宜野湾王子尚寅と松山王子尚順は、断髪し新調した燕尾服を着用して出席します。実はこの件は、爵位授与の話を聞いた奈良原知事と宮内大臣との計らいで特に断髪をせずに旧礼服のままの参内でもよかったのですが、父尚泰候からの命令で両王子は断髪かつ新礼服で授与式に出席することになります。

この話が琉球士族に広まるや、沖縄県内においても自発的に結髪(カタカシラ)を断髪する人が増えるようになります。そして両王子が名実ともに日本の華族となり、琉球王家の再興は不可能であることを満天下に示す結果となったため、頑固党の人たちは果てしない絶望感を味わうことになります。

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公同会運動の考察 その4

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1894年(明治27)に勃発した日清戦役は1895年(明治28)4月に日本の勝利で終結します。前回の記事でも記述した通り、当初は頑固党の人々は清国の敗戦を信用しませんでした。ただし翌96年(明治29)1月に、清国(福州)から東京→長崎→鹿児島経由で脱清人の26名が帰国したことで、頑固党の人たちは清国の敗戦の事実を信じない訳にはいかなくなります。

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公同会運動の考察 その3

前回の記事で日清戦争の結果によって、開化党と頑固党の確執は頂点に達したと記述しました。理由は開化党の拠点の一つであった琉球新報社が、毎日のように日本軍の快進撃を報じたからです。当然頑固党派新聞報道を信用しません。それどころか新聞のことを紙ハブとあだ名をつけて忌み嫌うようになります。ちなみにその時の様子は下記の抜粋文をご参照ください。

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公同会運動の考察 その2

公同会運動について述べる前に、廃藩置県後の沖縄における社会的勢力について説明します。大雑把な分類になりますが、下記をご参照下さい。

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公同会運動の考察 その1

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今回から1896年(明治29)に旧王族を中心に結成された政治結社「公同会」と、彼等を中心とした自治権獲得運動について連載します。この運動は「公同会事件」として琉球・沖縄の歴史教科書に必ず記載されていますので、ご存じの方は多いかもしれません。ただし事件に至るまでの経緯と、その背景を調べると、実に異質極まりない案件なので、ブログ主が調子に乗って詳しく説明します。

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とあるFacebookの投稿に対して思ったこと おまけ

とある Facebook シリーズの投稿に対して思ったことシリーズは前回で終了予定でしたが、本日書き忘れたことがあった件に気が付いたため、恥を忍んでおまけ記事を連載します。

このシリーズの記事を書くにあたって、琉球民族独立総合研究学会(ACSILs)の公式ホームページや、SNS投稿者である親川さんのツイッター等をチラ見しました。学会は発足して数年程度ですので、現時点では試行錯誤の段階かなという印象を受けました。(ただし言語に関しては本気のようです)

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とあるFacebookの投稿に対して思ったこと その4

前回の記事で日清戦争後の結果、残念な日本人の態度に沖縄県人(とくに知識人たち)の顰蹙を買った件を掲載しました。もちろん内地人の目に余る態度は日清戦争前からもあったでしょうが、戦争の勝利に浮かれた一部日本人が調子に乗り過ぎたことは否定できません。

この後に沖縄一中ストライキや公同会事件という異常な事態が起こるのですが、いちいち説明するとすごく時間がかかるため、後日記事にします。当時の沖縄県人たちは内地人(他府県出身者)に対して一種の被差別感を持っていました。実はこの時初めて被差別意識から生じる劣等感を何とかしたいとの発想が生まれるのですが、当時の知識人たちは日本人になることで被差別意識を克服しようと考えます。

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とあるFacebookの投稿に対して思ったこと その3

前回の記事でちょっと情けない頑固党の士族たちの話をしましたが、彼らが明治政府に対して大々的な抗議活動ができなかったもう一つの理由があります。それは尚泰候(元国王尚泰)が東京に在住していたことです。

仮に沖縄社会において士族が大規模な反乱を起こした場合、結果として東京在住の尚泰候の身に危険が迫ることになります。おそらくこっちの理由のほうが大きかったのでしょう、結局頑固党の皆さんは大人しく日々を過ごすことになります。

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とあるFacebookの投稿に対して思ったこと その2

前回の記事は予想の斜め上を行く反響がありました。その記事は11月1日に掲載したのですが、公開済み10時間で、当ブログのアクセスランク2位を達成するという謎現象が発生しました。”投稿者の親川さんって一体何者” という突っ込みは取り敢えず置いといて、今回から少し真面目に琉球・沖縄の歴史における差別からの解放の概念について説明します。

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とあるFacebookの投稿に対して思ったこと その1

先日 Facebook をちら見していたときに気になる投稿がありました。日時を確認すると、10月19日、投稿者は親川志奈子さんで、この時点で彼女の経歴は寡聞にして知りませんでした。10月18日の高江における機動隊員の土人発言に対する投稿のようです。全文を書き写しましたので是非ご参照ください。。

*彼女が日本国からの独立を志向している件はあとから知りました。琉球民族独立総合研究学会の一員です。 

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