シリーズ

革新共闘会議とオール沖縄会議との共通点について

Chobyo_Yara

今月30日投開票の沖縄知事選に関連して、ブログ主は沖縄における県知事選挙の原型ともいえる昭和43年(1968年)の琉球政府主席公選について調べてみました。この時の主席公選は前年(1967年)11月15日の佐藤・ジョンソン声明に対する是非を問う選挙になりました。その声明における沖縄返還に関する項目は下記を参照ください。

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文替(もんがわり)に関する史料

今回は、文久元年(1861年)から始まった文替(もんがわり)に関する史料をチェックしてブログ主なりに纏めてみました。比嘉春潮著『沖縄の歴史』、東恩納寛惇著『尚泰候実録』、および『球陽(附巻四)』から文替に関する記述を抜粋して表作成すると次のようになります。

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琉球王国が経済的に終了した日

前回、当ブログに於いて文替(もんがわり)について言及しました(琉球・沖縄の歴史上最悪の布令)。この政策は琉球社会にハイパーインフレを巻き起こし、その結果経済は壊滅の憂き目を見ます。だがしかし琉球王国の恐ろしいところは、王府自身も全身全霊を挙げて経済破滅に尽力したことです。

嘘だと思う読者は、『尚泰候実録』から該当する部分を抜粋しましたので、是非ご参照ください(旧漢字はブログ主にて訂正済み)。

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琉球・沖縄の歴史上最悪の布令

早速ですが、比嘉春潮著『沖縄の歴史』の一節をご参照ください。

1861年(尚泰14)年正月26日、首里王府は「御国元(薩摩)で小銭が少なくなったので、銅銭一文に鉄銭二文引合で御蔵の収入支出・領内一般通用することになった。当国でも御国元同様の引合で通用を仰せ付けられたについては、諸座諸蔵は座検者で取締り、首里泊那覇久米村は横目・惣横目、田舎は小横目で取締ることにする。もし違犯の者があったらそれぞれ処罰する」という布令を出した。昨日まで同価値で通用していた銅銭と鉄銭が、今日から二と一の割合に通用価値が変動したわけであった。これを文替(もんがわり)と称した

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化外ノ野蕃

前回の記事において、日本と清国における琉球帰属の認識の違いについて述べました。今回は台湾出兵における有名な「化外の○○」という語句について言及します。たとえば喜舎場朝賢著『琉球見聞録』の15㌻を参照すると、

(明治7年)4月陸軍中将西郷従道軍を率て台湾生蕃を膺懲す。初め明治4年琉船三艘宮古島へ赴く洋中逆風に遇ひ台湾生蕃牡丹社の地に漂泊し礁に触れ破壊し七十余名漂水して岸に上る生蕃人のために剽掠殺害せられ僅か十数名遁走し稍く福州に達し生還を得たり。朝廷条約を締ぶ事のために副島(種臣)外務卿を清国へ遣はさる其の時台湾生蕃の琉人を殺害したる罪を責む。清国政府云う、生蕃は化外の地我が照管する所に非ずと是を以て……

と記載されています。「化外の○○」という文言は明治6年(1873年)6月21日、北京の総理衙門において日本と清国側での外交交渉のなかで「化外の野蛮」という文言が発せられ、これが元ネタではと考えています。今回その部分を抜粋しましたので読者のみなさん是非ご参照ください。

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属国と属藩の違い

今回、当ブログにおいて明治6年(1873年)6月21日、北京の総理衙門(清朝の外交官庁)における日本と清国との外交についての記事を掲載します。明治4年(1871年)11月に起きた宮古島島民遭難事件に関する交渉記録を参照すると、実に興味深い点がいくつか確認できました。教科書等でもよく知られている「化外の民」という語句の元ネタがこの時の折衝であったことと、日本と清国側で琉球の帰属に関する認識が異なっていることが分かる内容が記載されています。読者のみなさん是非ご参照ください。

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浦添・川平親方の嘆願書

ここ数日の間、ブログ主は琉球藩時代の資料を基に記事を作成していますが、今回は明治5年(1872年)9月4日(旧暦)に三司官(浦添親方、川平親方)より在番所(琉球国内に設置された鹿児島県庁の出張所)に提出された嘆願書について言及します。

この嘆願書は前年11月の宮古島島民遭難事件に対し、朝廷(明治政府)側が台湾出兵を計画しているとの風評を聞いた王府側が、かくかくしかじかの理由にて出兵はお取り止めしてほしい旨記載し、在番所経由鹿児島県側に提出したものになります。ブログ主は今回初めてこの嘆願書を目にしましたが、この中で当時の琉球王国をとりまく国際環境が伺える内容が記されています。史料は東恩納寛惇著『尚泰候実録』204~204㌻から原文を写本し、今回も試みにブログ主による読み下し文および解説も併記しました。読者のみなさんぜひご参照ください。

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伊地知貞馨の復命書

今回は明治6年(1873年)5月31日、伊知地貞馨(いじち・さだか)によって朝廷(明治政府)に提出された復命書(命令に従ってした事の経過・結果を命令者に報告)について言及します。史料は『琉球所属問題関係資料第六巻琉球処分(上)』から抜粋しました。ブログ主が試みに作成した読み下し文も併記します。読者の皆様、是非ご参照ください(原文は読み飛ばしても可)

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アメリカ世を象徴する建築物

先日、松岡政保(まつおか・せいほ)氏の回顧録『波乱と激動の回想』を流し読みした際に、実に興味深い箇所を発見しました。それは同著343㌻から「歴代高等弁務官の思い出」について記している中で、琉球政府行政府ビルから米民政府が移転したエピソードを追記していることです。

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長嶺秋夫さんのいい話 – その2

今回も長嶺秋夫さんのいい話を掲載します。以前、当ブログにて『台湾および大陸の中国人との付き合いについての考察』という記事を配信しました。その中で長谷川慶太郎著『迷走する中国』からのエピソードを抜粋して、台湾および大陸の中国人との交際には事実に基づいた率直な態度が必要であることを明記しました。長嶺秋夫さんは複数回台湾を訪問していますが、彼も台湾の中国人と接する際に”率直さ”をもって対応しています。

台湾の中国人は我が沖縄のことを”琉球”と呼び、日本と琉球は別であると認識する傾向があります。長嶺さんはこの点について、「沖縄県民は、まぎれもない日本人であると同時に……」と明快に説明し、そのことが現地の人達からかえって好感をもって受け止められます。昭和40年(1965年)の話ですが、現在でも通用する内容ですので読者のみなさん、是非ご参照ください。

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長嶺秋夫さんのいい話 – その1

今回はアメリカ世の時代(1945~1972)における立法院(現在の沖縄県議会)の名議長として名を馳せた長嶺秋夫(ながみね・あきお)さんのいい話を掲載します。彼は昭和29年3月(1954年3月)に第2回立法院議員に当選して18年間立法院副議長および議長を歴任し、戦後沖縄の政治を語る上で欠かせない人物と言っても過言ではありません。

長嶺氏の自叙伝である『私の歩んだ道』(昭和60年刊行)はブログ主もよく参照しますが、その中に佐藤栄作首相のエピソードが記載されていました。該当部分を抜粋します。長嶺さんの短い証言から佐藤首相の沖縄に対する”格別な想い”を感じ取ることができます。

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【地元散策】宜野湾市喜友名(きゆな)の石獅子群巡りをしてきたお話

先日(6月18日)、唐突ではありますがブログ主は我が宜野湾市喜友名にある石獅子群をチェックしようと思い立ち、今回はそのときの散策記事を掲載します。

ちなみに平成27年(2015年)に喜友名区自治会から発行された地元史『喜友名誌 ちゅんなー』によると、これら石獅子は「村落獅子」に分類、喜友名集落が碁盤型集落になったのは1737年以降のためおそらく18世紀ごろに作られたのではと記載があります。喜友名の石獅子に関する詳細な説明は後日史料として当ブログで掲載しますので、今回は先に7対のシーサーめぐりの記事をアップします。地元史好きの読者のみなさん、是非ご参照ください。

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【再考】 キャンプ・シュワブ誕生の経緯 – その4

今回は、“キャンプ・シュワブ誘致説”の根拠の一つでしょうか、平成4年(1992年)9月18日の沖縄タイムスに連載された『弁務官周辺の秘話 – ジョージ・サンキ語学将校の証言』の全文を抜粋します。読者のみなさん是非ご参照ください。

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小渡三郎さんのエピソード

唐突ですが、なんとなくゆるい記事を書きたいとの思いつきから、今回は小渡三郎(おど・さぶろう)さんのエピソードを掲載します。ちなみにこの人、追悼録を読むと打線が組めるほどエピソードが豊富ですが、今回はその中のひとつで昭和19(1944)年に海軍兵学校を受験するために鹿児島で起こした事件を紹介します。

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【再考】 キャンプ・シュワブ誕生の経緯 – その3

今回は昭和31年12月の土地接収に関する記事を掲載します。前述したとおり、昭和30年(1955)年の2度の接収予告では比嘉村長を始め久志村の地主は反対の立場でした。ただし3度目にあたる昭和31年12月20日の新規接収予告においては、「契約を前提」として話がすすみ、そして同月28日にスピード契約という異例の展開となります。

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