第二試合 美里工 vs 小禄
事前に予想したとおりのグダグダの泥仕合展開も、最後は効果的に加点し続けた美里工が勝利しました。美里工は打線が好調で、長打ありスクイズありの多彩な攻めで小禄の投手陣から7得点します。とにかく左打者が多く、各打者の振りが鋭くて上位下位満遍なくチャンスメークして効率的に加点したのが印象的です。
第二試合 美里工 vs 小禄
事前に予想したとおりのグダグダの泥仕合展開も、最後は効果的に加点し続けた美里工が勝利しました。美里工は打線が好調で、長打ありスクイズありの多彩な攻めで小禄の投手陣から7得点します。とにかく左打者が多く、各打者の振りが鋭くて上位下位満遍なくチャンスメークして効率的に加点したのが印象的です。
今日(7月16日)は夏の甲子園沖縄予選の準決勝を現地観戦しました。前回の記事で
嘉手納 3-1 那覇西
小禄 8-7 美里工
と予想しましたが、実際の試合結果は
嘉手納 3-0 那覇西
美里工 7-4 小禄
となりました。観戦レビューを載せますので、明日の決勝戦の観戦のお役にたつとありがたいです。
では準決勝に進出した4チームの比較表をチェックしましょう(プラス八重山商工と2015年甲子園出場チームの平均値も記載)。
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1FA308_VklTMuJVOFVHsfu9nY3tO2qJhKThcUvuqVsYA/pub?output=pdf
上記のデータは単純にイニングや得点、失点のデータをまとめてチームの勝ちあがり方を調べただけですが、意外に参考になります。これらのデータから嘉手納と那覇西はディフェンス重視で勝ち上がり、小禄と美里工は打撃戦を制したことがわかります。
いやぁ、今年の夏の高校野球沖縄予選は歴史上まれにみる波乱の大会になりました。まさか沖縄尚学が3回戦で宜野座に完敗するとは…しかも勝った宜野座もベスト8で逆転負けを食らうし、まさに読めない展開になっています。
春のシード校が3回戦で全滅なんて、ブログ主が知るかぎり聞いたことありません。シード校がふがいないというよりは沖縄県の公立のレベルが上がっていて、強豪といえどもコンディション調整を誤るとあっさり負けてしまうのです。事前予想がここまで外れたのは残念ですが、県全体のレベルが上がっている何よりの証拠で野球ファンとして実に嬉しい限りです。
7月9日コザしんきんスタジアムで行われた3回戦、興南vs嘉手納の9回表のクロスプレーにおける誤審騒動について解説します。先ずはYouTubeの動画をどうぞ。
8回裏終了時には1-0と興南が1点リード、9回表で後がない嘉手納高校はノーアウト1塁で4番がレフトオーバーの長打を放ちます。その時のホームでのクロスプレーの判定が物議をかもしたのですが、たしかにこの角度から見るとアウトに見えます。
最後に琉球・沖縄の歴史において(ブログ主が知る限り)ただ一人男色家がいますが誰だと思いますか?何を隠そうその人物は奈良原繁氏です。その逸話を記載して男色の慣習がなかったことの閑話を終了します。
日本の歴史において男色は僧侶の慣習から武士の慣習と伝播します。このことは、仏教が武士の間でも深く信仰されていたことを物語るのですが、琉球・沖縄の歴史において13世紀末にに伝来した仏教から士族の間に男色の慣習は広まりませんでした。
琉球王国時代の宗派は臨済宗と真言宗です。沖縄最古の寺院は護国寺(沖縄県那覇市若狭)で宗派は真言宗です。真言宗が伝来したにも関わらず、男色の慣習がもたらされていないのはどう考えてもおかしいのですが、問題は歴史家が其の点に気がついていないことです。
琉球・沖縄の歴史において辻町などに代表される風俗街が誕生したのは約500年前です。風俗産業に従事する女性のことを尾類(ジュリ)と呼びますが、琉球の風俗産業の担い手はすべて女性で実はまったく男性が関与していなかったのです。
日本の風俗産業の場合は中間搾取者として必ずと言っていいほど男性の存在がありますが、琉球・沖縄の歴史では1945年(昭和20)まで風俗産業に男性は一切関わっていなかったのです。このことは性産業を考える上では異例この上ないと言っても過言ではありません。
「沖縄の艶笑譚」という本があります。内容は「民謡昔エロトーク集」で庶民や士族の下ネタ中心に不倫や複数プレイ、果ては獣姦のエピソードまで記載されていて良い子の皆さんには読んで欲しくない本です。ただし何事にも例外があってこの本には男色のエピソードが一つも記載されていないのです。
オモロにも琉歌にも文学にも男色をテーマにした作品はありません。例外として組踊りの二童敵討にそれらしき記載があるのみでしょうか。この作品は親の敵を討つのがテーマで男と男の痴話のもつれから刃傷沙汰になった訳ではありません。衆道敵討ち*とは全く違います。
琉球と薩摩とは1609年以前にも付き合いがあります。数百年来の長い交流があるのですが、それにしては薩摩から持ち込まれた文化がほとんど見当たらない*のです。薩摩を経由して日本の文化が持ち込まれますが、沖縄を実質的に支配してきた国の慣習が持ち込まれないことはよく考えると異様です。
*琉球侵攻における戦争目的は明国との貿易利権の確保です。琉球人が薩摩化するとどうしても不都合が生じてしまうため、薩摩藩は琉球人と薩摩人との区別を強調する政策を取ります。おかげで薩摩と琉球王府の関係は良好で、270年にわたる平和と安定の時代が訪れます。
日本の歴史に於いて最も人気が高い時代は織田信長などの戦国武将が大活躍した戦国時代か、あるいは新撰組の物語が有名な幕末でしょうか。戦国時代(1467~1590)は京都の足利家の凋落から豊臣秀吉による天下統一までのストーリーに興味を引かれる読者も多いでしょう。登場人物の魅力にも大いに惹かれます。
そんな戦国時代ですが歴史教科書には決して載せない事項があります。タブー扱いになっていますが、それは人身売買と戦国武将たちの男色の慣習です。例えば織田信長*は女性よりも男性との性的交渉が多かったなどと教科書に記載することはできないでしょう。歴史教育ではタブー扱いでも問題ありません。
琉球国にイスラム教が普及する可能性は1511年(永正8)にポルトガルがマラッカを占領し事実上南方との交流が制限されたことで限りなくゼロに近づきます。1609年(慶長14)には島津氏による琉球侵攻及び江戸幕府による海禁政策によってイスラム教はおろか新しい宗教が普及する可能性もゼロになります。
明治の世になってようやく信仰の自由が保障され、その結果禁教扱いだった浄土真宗やキリスト教が普及しますがこの期に及んでもイスラム教は蚊帳の外です。大正→昭和→平成の世を経ても普及する様子はありません。
イスラム教圏ですらアメリカナイズされつつある今日、沖縄に於いてイスラム教が普及する可能性はゼロと言わざるを得ません。1372年から1511年の交易時代に布教のタイミングを逃したことがすべてです。趣味や学問として研究することはあってもイスラムの教えに帰依する沖縄県民は今後出現しないと断言せざるを得ません(終わり)。
では当時の琉球国においてイスラム教の普及の可能性はゼロだったのか?というとそんなことはありません。実は画期的な方法があったのです。イスラム教は女性にも門戸を開いている宗教です。この点は誤解されている読者も多いでしょう。男女の区別は明確ですがイスラムの教えに帰依することに対しては性別の差別はないのです。
事実イスラムの歴史には女性の法学者や伝承学者が多数存在します。廃藩置県まで女性を学問から排除した琉球の社会構造に比べるとイスラム教のほうが遥かに女性尊重の姿勢です。そこで当事の琉球社会に於ける最高の権威である聞得大君をはじめ神女が全員イスラムの教えに帰依すればあっという間にイスラム教は広まったこと間違いありません。問題はこのアイデアに誰も気が付かなかったことです。
当事の琉球にイスラムの教えが普及しなかったもう一つの理由が神女の存在です。琉球・沖縄の歴史において地方自治における神女の存在は極めて大きなものがありました。理由は地域共同体における最高の権威として君臨していたからです。
では当事の琉球人の知的レベルに問題がないとすれば別の要因でイスラム教が伝播しなかったと考えざるを得ません。イスラムの教えが琉球に到達しなかったのはなぜか、ブログ主が思うには以下の2点です。
1.イスラム教の戒律の厳しさ。
2.当事の琉球国における神女の存在。