6月11日に北谷球場で毎年恒例の招待試合が開催され、今年は大阪桐蔭高校が来沖して糸満高校と豊見城高校と試合を行いました。本来は2日で4試合を予定でしたが残念ながら12日は雨天中止になってしまいました。11日の試合は糸満高校は5-4で勝利、豊見城高校は1-5(6回雨天ノーゲーム)の結果でした。
今年の大阪桐蔭は春のセンバツで見たかぎりでは打撃面で打ち損じが多く、投手力も不安定のため沖縄の上位チームなら互角に戦える力があると予想していました。練習試合とはいえ糸満高校の勝利は別に驚くことではありません。糸満のエース平安くんの力量があればゲームを作るだけ投球はできます。
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沖縄の高校野球は8という数字に縁があります。1958年(昭和33)の夏の甲子園で首里高校が甲子園に初めて出場しますが、その後不思議なことに10年ごとにイベントが発生しています。時系列で記載すると……
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いやぁ、今日の(6月10日)の巨人vsソフトバンクの交流戦はすばらしい試合でしたね。今年に入って絶好調の東浜巨投手が6回0/3イニングを無失点に抑えるピッチングには感服しました。ブログ主が見た東浜くんですが、プロ4年目でようやく筋力を使いこなすことができるようになった印象です。
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1849年(嘉永2)に尚泰くん*が新しいPCユーザーになりますが、すでにPCはポンコツ1歩手前の状態でした。こんなときに登場したのがアメリカ合衆国のペリィのおっさん一味*です。尚泰くんに大して「新たに合衆国とのネットワークを敷設しろ」と無理難題を吹っかけます。
*尚泰(しょう・たい:1843~1902):尚円王統最後の琉球王。即位は1849年(嘉永2)で冊封は1866年(慶応元)。1872年(明治5)に明治天皇より琉球藩主に封じられます。
*マシュー・ペリー(1794~1858):アメリカ海軍の軍人。旗艦サスケハナ号など数隻の軍艦を率いて1853年(嘉永5)3月に琉球王国に来航。首里城訪問を果たします。
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今回の最終予選では、スプートニック0829さんを初めバレーボールのブロガーたちが日本バレーボール協会の改革の必要性を訴えています。スプートニック0829さんの意見が一番分かりやすいのでブログ内ページを貼り付けしましたが、ブログ主が一番危惧しているのは実は東京オリンピック以後のバレーボール競技の行く末です。
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18世紀前半になるとPCの動作はまたまた機能不全の一歩手前に陥ります。羽地の爺さんがせっかく精魂こめてアップグレードを施してもやはり時代の変化には対応できなかったのです。そこで満を持して蔡温先生が登場してOSのアップグレードを敢行します。
*蔡温(さいおん:1682~1761):那覇久米村出身。1392年に明国より帰化した中国人の末裔。時の国王である尚敬の信任厚く、1728年(享保13)に三司官に任命されて琉球国の建て直しに尽力する。当事としては異例の長寿であることも注目。
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2013年に日本男子バレーボール代表チームの監督に就任したゲーリー・サトウ氏は元アメリカ男子チームのコーチで、日本バレーボールの改革に取り組みますが、残念ながら初年度は散々な結果に終わります。世界選手権に出場できなかったことが最大の失敗ですが、ゲーリー・サトウ氏はVリーグや大学、あるいは春の高校バレーなどを精力的に視察して2014年のシーズンに臨もうとした矢先に突如2014年2月に解任されて、南部正司氏が新監督に就任します。
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さて、琉球に戻ってきた尚寧くんはPCユーザーとしての地位は確保されましたが、薩摩おいどんに配慮しながら操作せざるを得ない立場になります(下図参照)。


*本来であれば尚寧くんは管理者としてPC利用できる立場です。ただし1609年(慶長14)の薩摩入りで管理者権限を剥奪され、標準ユーザーとしてPCを操作せざるを得なくなります。御国許(おくにもと)とは薩摩藩のことをさし、管理者としてPCにアクセスできる権限を獲得するも、実際の操作は尚寧くんが担当します。
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底辺まで落ちてしまった日本男子バレー(笑)が復活する見込みはあるのでしょうか?実は日本バレー協会は復活の目を自らの手でつぶしてしまった過去があるのです。2008年の北京オリンピックで日本男子バレーは出場こそすれもど一勝もできませんでした。その後に全日本監督の公募を行ったところ何と世界的な名監督であるフリオ・べラスコ氏*が手を挙げたのです。
*フリオ・ベラスコ:アルゼンチン出身のバレーボール指導者。バレーファンなら知らない人はいないほど有名な指導者。1990年のイタリア男子バレー黄金期の監督。
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日本バレーが世界から取り残されている件に関してはバレーファンならご存知かもしれませんが、いくつかの実例を挙げます。2014年にゲーリー・サトウ監督を解任して南部正司氏が全日本の監督に就任します。その際所信表明が「レシーブ世界一」です(下記URL参照)。ただし2016年の世界最終予選では石川祐希選手のレセプションが崩れたときにブレイクされる傾向があったにも関わらず、メンバー交代等は行わずにそのままずるずると失点したケースが目立ちました。ポーランド戦の第二セットが好例です。
http://sports.yahoo.co.jp/sports/volley/japan/2014/columndtl/201402060005-spnavi?page=1
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今回の最終予選を観戦してブログ主が思いついたのはペレストロイカ時代のソビエト連邦と、1853年(嘉永5)のペリー来琉以降の琉球王国です。共通点は偉大なる指導者が築き上げたシステムが時代を経て制度腐朽を起こして、ついには崩壊してしまうことです。
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今回は本来なら琉球・沖縄の歴史ブログで記載すべき内容ではありませんが、5月28日から開催されたバレーボール世界最終予選における男子チームの戦いを観戦しての感想を調子に乗って記事にします。今回の最終予選はフランスやポーランドなどの一流チームやイランも参戦して、前年に行われたワールドカップで予想外の好成績を挙げた日本チームがどのような戦いぶりを見せてくれるか注目していましたが……その結果は「酷い」としか表現できません。
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琉球・沖縄の歴史を俯瞰すると、1879年(明治12)以前には異様なまでにおとなしかった住民が1945年(昭和20)以降では激しい住民運動を展開するまで戦闘的になっていることには驚かざるをえません。そして島ぐるみ闘争や祖国復帰運動を展開することで大きな成果を勝ち取ります。
敗戦国民の悲哀を嘗め尽くした当時の沖縄の人に大きな自信と誇りを与えますが、その反面「訴え続ければ何時かは願いが叶うなり」というエートス(行動様式とそれを支える思考)を植えつけることになってしまったのです。
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ブログ主が知っている限りですが、1879年(明治12)までの琉球・沖縄の歴史において一揆は一度たりとも起こっていません。日本史、とくに室町中期から江戸時代末はでは一揆の時代と言っても過言ではないほど一揆が多発します。国人一揆、国一揆など一揆に関する用語も多彩です。
1879年(明治12)までの琉球の歴史には一揆はおろか住民暴動の痕跡が見当たりません。1650年に初めて編纂された通史「中山世鑑」をはじめ、他の史書にも記載が見当たらないのです。黒歴史として抹消したのでは?との仮説も成り立ちますが、琉球王国末期で社会が疲弊して村や間切の破産が社会問題になっているにも関わらず住民暴動が一件も確認できないのは腑に落ちません。
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アメリカ軍の占領行政を経験した世代のことをブログ主は戦後世代と呼びます。翁長雄志知事はまさにその世代で60~70代の世代が該当します。この時代の特徴の一つは住民運動が激しかったことです。きっかけはアメリカ軍による強制的な土地接収に対する反対運動ですが、やがて祖国復帰の運動に発展して1972年(昭和47)に日本国への復帰を勝ち取ります。
終戦直後のアメリカ兵たちが如何に横暴だったか、5月31日の沖縄タイムスにこのような記事が掲載されていましたので参考にしてください。
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