大日本帝国の時代

公同会運動の顛末 琉球新報社が果たした役割 その3

okinawa-asahi-sinbunn

今回はついでと言っては何ですが、沖縄タイムスの変遷について掲載します。県下最大の新聞社ですが、現在では何かと評判がよろしくありません。若い世代からはその論調が目の敵にされている傾向すらありますが、沖縄タイムスの出自を振り返ると、納得できる所もありますので、ブログ主が調子に乗って社の変遷を説明します。

沖縄タイムスは1948年(昭和23)7月1日に創設されます。設立時のメンバーは戦前の「沖縄朝日新聞」のメンバーを中心にスタートしますが、琉球新報との違いは

続きを読む

公同会運動の顛末 琉球新報社が果たした役割 その2

ryukyu-sinpo

前回の記事では、1893年(明治26)に誕生した琉球新報について説明しました。今回は1951年(昭和26)9月に「うるま新報」から「琉球新報」に改題した現代の琉球新報社について記述します。

実は現代の琉球新報社は、大日本帝国の琉球新報社の伝統を完全に引き継いでいません。理由は

続きを読む

公同会運動の顛末 琉球新報社が果たした役割 その1

ryukyu-sinpo

前回までは公同会事件における頑固党と、現在のオールおきなわの勢力との比較を記事にしました。時代も主義・主張も違えど、驚くほどの共通点があったのですが、今回からは琉球新報社の古今比較を記事にします。

公同会事件において琉球新報の果たした役割は非常に大きいものがありました。公同会運動の特徴は

続きを読む

公同会運動の顛末 頑固党とオールおきなわ その3

前回の記事はすこしキツい内容になりましたが、歴史を振り返って現代のオールおきなわ(旧革新勢力)の行く末を考えると、答えはただ一つ「没落」しかありえません。理由は彼らの思想・心情を後世の沖縄県民が引き継ぐとはとても思えないからです。

その前に「没落」の意味を説明します。公同会事件後(1896~1897)に頑固党は沖縄社会における影響力を完全に失います。彼らの家禄は1910年(明治43)まで明治政府が保証したため*生活に困ることはありませんでした。ただし琉球士族のプライドは粉々に砕け散り、頑固党の子孫はすべて日本人になることで士族の伝統は完全に断ち切られることになったのです。(例外は尚家)

続きを読む

公同会運動の顛末 頑固党とオールおきなわ その2

現代社会において国際社会における日本の立場は何かを考えると、ズバリ「冷戦に於ける戦勝国*」になります。かつての東西冷戦時には「第二次世界大戦時の敗戦国」の立場でした。1991年(平成3)のソビエト連邦の崩壊によって日本は著しく国際的な立場を変えたのですが、実はオールおきなわの人たちはこの点を絶対に認めようとはしません。

*東西冷戦が西側の勝利で終わったのはヨーロッパの話で、東アジアでは継続中です。ただしこの記事では東アジアでもやがては西側の勝利で冷戦が終わることを前提に論理を展開します。 

続きを読む

公同会運動の顛末 頑固党とオールおきなわ その1

前回まで長々と1896年(明治29)の公同会運動の背景について説明しました。ブログ主がこの事件に非常に興味を持ったのは、犬猿の仲であった開化党と頑固党が手を組んで政治運動を展開した意味不明さを自分なりに解釈したいという気持ちになったことと、もう1つ当時の頑固党の社会的な立場と、現代のオールおきなわ(とくに旧革新勢力)の立場が驚く程似ていることに気が付いたからです。 

社会システムも主義主張も違うので単純に比べるのも無理はあるのですが、それを承知の上で少なくとも下記の2点では頑固党とオールおきなわは共通しています。それは

続きを読む

公同会運動の考察 その7

前回までに公同会運動に至るまでの社会の動きや勢力について説明しました。今回は公同会運動の狙いと、なぜ明治政府によって拒絶されたかを考察します。

公同会は王族を中心とした発起人7人(8人説もあり)で結成された沖縄初の政治結社です。首里に本部を置き、地方にも支部を設置して、会則を定め、総会や委員会の定例会を開くなど、かなり気合の入った団体でした。そして公同会のメンバーは那覇や首里の都市部だけではなく、地方にも遊説して沖縄に特別の自治制度を設置することに対する支持を呼びかけます。

公同会の趣意書を3行でまとめると

続きを読む

公同会運動の考察 その6

seibu_kamekawa

ここまで1896年(明治29)に元王族が中心となって公同会という政治結社を設立する時代背景について説明しました。予想通りの長い展開になりましたが、この件はやはり調べれば調べるほど複雑怪奇な内容で、現時点のブログ主のレベルではちょっと厳しいかなという状態です。

問題をややこしくしている点は、まず頑固党にも複数の派閥があることです。現在の歴史書に記載されている白頑(頑固党白派)や黒頑(頑固党黒派)や開化党の区分けは、西村捨三(第四代沖縄県知事)一木喜徳郎氏が提案した分類方法に準拠しているのですが、実際には白派にもまた2つ派閥があって、黒派に近い白派や、明治政府に対して面従腹背で時が来るのを待つ穏便派など、内部で熾烈な派閥争いがあったのです。

続きを読む

公同会運動の考察 その5

syoujunn

1896年(明治29)6月の爵位授与式(男爵)に於いて、宜野湾王子尚寅と松山王子尚順は、断髪し新調した燕尾服を着用して出席します。実はこの件は、爵位授与の話を聞いた奈良原知事と宮内大臣との計らいで特に断髪をせずに旧礼服のままの参内でもよかったのですが、父尚泰候からの命令で両王子は断髪かつ新礼服で授与式に出席することになります。

この話が琉球士族に広まるや、沖縄県内においても自発的に結髪(カタカシラ)を断髪する人が増えるようになります。そして両王子が名実ともに日本の華族となり、琉球王家の再興は不可能であることを満天下に示す結果となったため、頑固党の人たちは果てしない絶望感を味わうことになります。

続きを読む

公同会運動の考察 その4

kouchioyakata

1894年(明治27)に勃発した日清戦役は1895年(明治28)4月に日本の勝利で終結します。前回の記事でも記述した通り、当初は頑固党の人々は清国の敗戦を信用しませんでした。ただし翌96年(明治29)1月に、清国(福州)から東京→長崎→鹿児島経由で脱清人の26名が帰国したことで、頑固党の人たちは清国の敗戦の事実を信じない訳にはいかなくなります。

続きを読む