本日ブログ主は、台風6号の影響で自宅に缶詰め状態のため、これまで蒐集した史料をチェックしたところ、OneNote に保存していた風俗関連の史料が同期エラーで全滅している件に気が付きました。
シリーズ
売春宿エレジー 食う者は食われる
緊張のせいか被告人新里幸子(四十二歳)=仮名=の顔は青ざめている。左手に花柄のハンカチを強く握りしめ、判決宣告に対する不安に耐えている様子である。新里の罪名は売春防止法違反。新里の経営する小料理店「小菊」=仮名=において、売春婦二人が多数回にわたって不特定の遊客らを相手方として売春するに際し、その情を知りながら、「小菊」の客室を売春婦らに使用せしめ、もって売春を行う場所を提供したというのが公訴事実である。
ある有名な野球選手の兄弟がいまして
ご存じのとおり当運営ブログでは、今年の4月21日から「ロックとコザ」の川満勝弘編(愛称:カッちゃん)を不定期連載しています。ただし、カッちゃんの証言は時系列があいまいなところがあるので、これまた不定期ながら沖縄県立図書館に出向いて、裏付け史料を集めています。その際についうっかり沖縄ヤクザなど複数のじわじわくる記事を発見したりするわけですが、今回は「ロックとコザ」の喜屋武幸雄編からきわめて興味深い証言と、その裏付け(らしい)史料を見つけましたので、(時効だからいいだろうと思いつつ)当ブログにて紹介します。
りうきうと北朝鮮
4年前になりますが、ブログ主は “学びの国…がぴったり” と題した記事を配信し、沖縄教職員組合の石川元平氏による朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)への訪問記事を紹介しました。
二重思考とりうきう独立芸人
前々回の記事「我が沖縄が “独立” できない理由」を公開したところ、予想の斜め上をいく反響がありましたので、今回はりうきう独立芸人の「意識の底にあるもの」について、ブログ主がついうっかり気が付いた点について言及します。
我が沖縄が “独立” できない理由
ここ数日、ツイッターをチェックしていたところ、ブログ主の目を引いた投稿がありました。名護市議として活動中の” りうきう人” さんのつぶやきですが、極めて興味深い点についうっかり気が付きましたので、備忘録として当ブログにてまとめてみました。
ロックとコザと “納税”
先月21日から「ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編」と題して、故川満勝弘さんの証言を写本し、当ブログにて公開していますが、その過程でいろいろな “気づき” があったので、試しに記事としてまとめてみました。
廃藩置県と琉球処分の考察 – その2
(続き)前回の記事にて、沖縄の復帰運動における、一部沖縄県民のやり場のない怒りが、明治12(1879)年の廃藩置県に対する歴史認識に大きな影響を及ぼしている件についてブログ主なりに言及しました。今回は、この点についての補足説明を加えながら、「琉球処分」という用語がいかにマイナスイメージに染まっていったかを説明します。
廃藩置県と琉球処分の考察 – その1
今回は、前々回に公開した「県政百年の知事メッセージ(昭和54年)」に関連して、同時期の沖縄タイムスの記事と比較したところ、「県政百年」に関する認識の違いにじわじわきたので、試しに記事にまとめてみました。
県政百年の知事メッセージ(昭和54年)
本日は、(ブログ主的に)野球シーズンがひと段落したので、ブログネタになりそうな史料を探しに、ひさびさに沖縄県立図書館を訪れました。そういえば4月4日は、明治12(1879)年に廃藩置県が施行されて140年以上経っているなと思いつつ、試しに復帰後の関連記事をチェックしたところ、興味深い史料を発見しました。
たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その3
(続き)前回の記事で、玉陵に関する矛盾についていくつか言及しましたが、大雑把にまとめると、
たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その2
(続き)今回は、玉陵(たまうどぅん)について言及しますが、実はこの建築物は調べれば調べるほど “矛盾” だらけなのです。参考までに『球陽』をチェックすると、「尚圓王已ニ薨シテ、見上森ノ陵ニ葬ル。今番新ニ玉陵ヲ中山坊内ノ池ニ築ク。前ハ首里ノ大街ニ臨ミ、東ハ天界寺ヲ側ニス。先王尚圓王ヲ奉シテ、コノ玉陵ニ移葬ス。」とあり、見上森の陵(みやーぎむいうたき)に埋葬されている尚円王の霊骨を、1501年(尚眞王即位25年目)、玉陵に移葬したと記述されています。
たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)の謎 – その1
ここ数回、当運営ブログでは珍しく “古りうきう” の真面目な仮説記事を掲載し続けています。それはつまり、「古琉球の深淵 – おぎやかの謎」の続編を掲載すべく、彼女に関して集めた史料を改めてチェックしたところ、これまで気が付かなかった “盲点” に気づいたためですが、今回もその流れで「たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)」について言及します。
浦添朝満の謎 – その(2)
(続く)今回は、浦添朝満(1494~1540)の “失脚” について、ブログ主なりに言及しますが、実はこの案件で困ったことがあります。それは、彼が尚眞王の長男でありながら最終的に廃嫡の憂き目にあったため、後世の人たちから悲劇の主人公扱いされている点です。
浦添朝満の謎 – その(1)
今年に入って、「二代目聞得大君の謎」と題した記事を3回配信しましたが、実はブログ主の予想の斜め上を行く反響がありました。その際に、二代目聞得大君こと峯間(みねま)の史料をできる限りチェックしたところ、向氏小禄家(一世朝満)の一族に関する思いがけない事実に気が付きました。