コラム

キャンプ・シュワブゲート前で女性活動家が負傷した案件について

本日朝、ブログ主が6時半起床後にフェイスブックをチェックした際、実に気になる投稿があったので掲載します。投稿主は横山知枝さん、内容は「辺野古ゲート前で機動隊の暴力により2名が救急搬送されたって聞いたけど、そのういの1名はそのまま入院したって?……。」の物騒な書き込みでした。投稿のスクリーンショットを保存しましたので掲載します。

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産経ニュースの我喜屋優氏のインタビュー記事を読んで思ったこと

20170522

5月22日の産経ニュースに興南高校野球部監督の我喜屋優氏のインタビューが掲載されていました。ブログ主はzakzakの「高校野球名称列伝」などで我喜屋氏のインタビュー等は何度か読んだことがありますが、今回の記事は予想以上に政治的な内容も含まれていて正直な所ビックリしました。全文を掲載しますので先ずはご参照下さい。

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沖縄が日本に復帰した理由の一つを見つけたお話

Chobyo_Yara

本日(5月19日)は当ブログを開始して1周年にあたります。これまで251記事を掲載してきましたが、振り返るとアメリカ軍の占領行政時代の話題がほとんどないことに気がつきました。そこで手持ちの屋良朝苗回顧録(1977年、朝日新聞社刊行)を改めて読み返しているのですが、その中でアメリカ軍の時代において何故日本国への復帰が実現できたのか、理由の一つを見つけることができましたので、そのエピソードを紹介します。

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本土復帰の日のコメントを調べてみた

前日(5月15日)は我が沖縄県が本土復帰して45年の節目の年でした。ブログ主は突如世界的に爆発的に蔓延したウィルス(ランサムウェア)「Wanna Cryptor」の対策でPCのセキュリティチェックに忙殺されていましたので、本日(16日)改めて復帰の日に際しての沖縄県知事および各政党のコメントをチェックすることができました。

復帰の日のコメントは大まかにいってパターンが決まっています。テンプレ化していると言っても過言ではありませんが、

「沖縄が本土に復帰してよかった→だがしかし基地問題が云々」

の流れです。それでは沖縄県知事のコメントから紹介します。

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思いつくままに~聖諭六言と国王尚泰の(士族に対する)訓諭

たしか先週の日曜日(4月16日)と記憶していますが、テレビで名護の小学校に於いて「聖諭六言」が道徳科目として利用されているとの特集が放映されていました。正確には名護親方こと程順則が清国から持ち帰った解説書(いわゆる六諭衍義)を利用しているのですが、では「聖諭六言」とはどのような内容か下記参照下さい。

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現在進行形の沖縄県・竹富島のリゾート開発問題について思うこと。

竹富島憲章

以前からうわさには聞いていたのですが、沖縄県の竹富町の住民らが那覇市の不動産会社(株)アールジェイエステート社が計画しているリゾート事業に反対している件について、ブログ主はかつて観光関連で竹富島の業者等と関わったことがあり、その際の経験から今回のリゾート計画に関しての感想を記述します。

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沖縄の行政が本当に戦ってきた相手とは?

本日ブログ主は豊見城市字豊崎にある運転免許センターへ免許更新に行きました。(ちなみに金色の優良運転者講習です)。講習の際に配布された資料に面白いデータがありましたので掲載します。公益財団法人沖縄県交通安全協会連合会が発行した『安全のしおり』の12ページに、沖縄県の交通事故・自動車保有台数・人口・免許保有台数・道路実延長の推移データがありましたのでブログ主がその一部をアップします。

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公同会運動の考察 その7

前回までに公同会運動に至るまでの社会の動きや勢力について説明しました。今回は公同会運動の狙いと、なぜ明治政府によって拒絶されたかを考察します。

公同会は王族を中心とした発起人7人(8人説もあり)で結成された沖縄初の政治結社です。首里に本部を置き、地方にも支部を設置して、会則を定め、総会や委員会の定例会を開くなど、かなり気合の入った団体でした。そして公同会のメンバーは那覇や首里の都市部だけではなく、地方にも遊説して沖縄に特別の自治制度を設置することに対する支持を呼びかけます。

公同会の趣意書を3行でまとめると

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公同会運動の考察 その6

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ここまで1896年(明治29)に元王族が中心となって公同会という政治結社を設立する時代背景について説明しました。予想通りの長い展開になりましたが、この件はやはり調べれば調べるほど複雑怪奇な内容で、現時点のブログ主のレベルではちょっと厳しいかなという状態です。

問題をややこしくしている点は、まず頑固党にも複数の派閥があることです。現在の歴史書に記載されている白頑(頑固党白派)や黒頑(頑固党黒派)や開化党の区分けは、西村捨三(第四代沖縄県知事)一木喜徳郎氏が提案した分類方法に準拠しているのですが、実際には白派にもまた2つ派閥があって、黒派に近い白派や、明治政府に対して面従腹背で時が来るのを待つ穏便派など、内部で熾烈な派閥争いがあったのです。

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公同会運動の考察 その5

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1896年(明治29)6月の爵位授与式(男爵)に於いて、宜野湾王子尚寅と松山王子尚順は、断髪し新調した燕尾服を着用して出席します。実はこの件は、爵位授与の話を聞いた奈良原知事と宮内大臣との計らいで特に断髪をせずに旧礼服のままの参内でもよかったのですが、父尚泰候からの命令で両王子は断髪かつ新礼服で授与式に出席することになります。

この話が琉球士族に広まるや、沖縄県内においても自発的に結髪(カタカシラ)を断髪する人が増えるようになります。そして両王子が名実ともに日本の華族となり、琉球王家の再興は不可能であることを満天下に示す結果となったため、頑固党の人たちは果てしない絶望感を味わうことになります。

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公同会運動の考察 その4

kouchioyakata

1894年(明治27)に勃発した日清戦役は1895年(明治28)4月に日本の勝利で終結します。前回の記事でも記述した通り、当初は頑固党の人々は清国の敗戦を信用しませんでした。ただし翌96年(明治29)1月に、清国(福州)から東京→長崎→鹿児島経由で脱清人の26名が帰国したことで、頑固党の人たちは清国の敗戦の事実を信じない訳にはいかなくなります。

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公同会運動の考察 その3

前回の記事で日清戦争の結果によって、開化党と頑固党の確執は頂点に達したと記述しました。理由は開化党の拠点の一つであった琉球新報社が、毎日のように日本軍の快進撃を報じたからです。当然頑固党派新聞報道を信用しません。それどころか新聞のことを紙ハブとあだ名をつけて忌み嫌うようになります。ちなみにその時の様子は下記の抜粋文をご参照ください。

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公同会運動の考察 その1

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今回から1896年(明治29)に旧王族を中心に結成された政治結社「公同会」と、彼等を中心とした自治権獲得運動について連載します。この運動は「公同会事件」として琉球・沖縄の歴史教科書に必ず記載されていますので、ご存じの方は多いかもしれません。ただし事件に至るまでの経緯と、その背景を調べると、実に異質極まりない案件なので、ブログ主が調子に乗って詳しく説明します。

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