前回まで普天間第二小学校の誕生の経緯と、移転計画が断念した流れについて説明しました。今回は平成22年(2010)1月に産経新聞に掲載された記事について検証します。まず物議を醸した記事をご参照ください(現在リンク先にはアクセスできないため、Web 魚拓等からの全文掲載)。
仕方ない書評
12月25日の日刊ゲンダイDIGITALに掲載された、朝日新聞論説委員の高橋順子氏のインタビューがネット上で絶賛大炎上しています。その原因がインタビュー冒頭の部分、「新聞記者は、ウラを取って書けと言われるが、時に〈エビデンス?ねーよそんなもん〉と開き直る。政治部次長だった時に書いた朝日新聞社のコラム「政治断簡」をまとめた著書『仕方ない帝国』(河出書房新社)が評判だ。」の部分です。ちなみにエビデンス(evidence)の意味は大雑把に言って、「確固たる証拠、裏づけ」になります。果たして裏づけ(エビデンス)なしで本当に記事を書いていたのか、興味を持ったブログ主は早速ですが『仕方のない帝国』を入手して呼んで見ました。
〈エビデンス?ねーよそんなもん〉の部分は19㌻の中にありまして、その前後の部分を抜粋すると、
俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その3
今回は平成8年(1996)に現敷地での全面改築の経緯について記載します。平成17年(2005)3月に刊行された『普天間第二小学校創立35周年記念誌』には第7代校長の手記が掲載されていますので、該当部分を抜粋しました。ご参照ください。
俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その2
前回までに普天間第二小学校が誕生した流れを簡単に説明しました。今回からは移転計画の頓挫と、校舎立て替えにいたる経緯について、公開された情報をベースに記述します。
その前に普天間第二小学校PTA新聞(第72号)に、新校舎落成の記事が掲載されていますので全文抜粋します。
残念極まりない偏向報道の一例
本日(12月21日)の沖縄タイムス一面に、次のような記事が掲載されていました。ブログ主は以前、屋良朝苗著 – 『屋良朝苗回顧録』を読んでいたため、この記事に対して奇異な感じを持ちました。全文を掲載しますのでご参照ください。
俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう その1
去る(平成29年)12月13日に起こった飛行中の米軍へリの部品が普天間第二小学校へ落ちた事件に関連して、ブログ主が普天間第二小学校の歴史を調べてみましたので掲載します。普天間第二小学校の歴史(とくに移転問題)に関しては裏づけなしの噂話が多すぎるので、今回は公開された情報のみで歴史を振り返ります。
普天間第二小学校の分離開校は我が宜野湾市では初のケースで、その理由は人口の急増です。そのため昭和37年(1962)の市制施行からさかのぼって学校の歴史を鑑みるのがよいと考えます。
瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~学歴詐称の疑い
ここ数日間、ブログ主は昭和20年から25年にかけての瀬長亀次郎さんの経歴をチェックしていましたが、沖縄公文書館が Web 上で公開している文書のなかに面白い資料を見つけましたので掲載します。
琉球政府文書 – 政党に関する書類(1)結成届け、綱領、会計報告のページで、沖縄人民党関連の資料が公開されていますが、その中の 108㌻以降、1949年11月2日付、沖縄人民党中央委員会が沖縄知事志喜屋孝信(しきや・こうしん)宛てに提出した『政党に関する報告』の中の役員名簿を見たときに、ブログ主は「えっ??」と思った記述がありましたので、画像を貼り付けます。
12月13日の米軍ヘリからの部品落下事件について
先日の13日10時ごろ、我が宜野湾市の普天間第二小学校の校庭グラウンドに米軍ヘリの部品が落下して大騒ぎになった案件、14日の沖縄2紙では一面トップで大々的に報道しました。2日経過して様々な報道に接してようやく冷静になったところで、今回の事件についての記事を掲載します。
父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです
先日7日に保育園に米軍の部品と思わしき円筒が落下した事件があり、12日現在ネット上でちょっとした騒ぎになっています。
史料 又吉康和氏の「自治尚早論」
今回は又吉康和(またよし・こうわ 1887~1953)氏の「自治尚早論」の全文を掲載します。先ず又吉氏のプロフィールを『沖縄大百科事典』から抜粋しますのでご参照下さい。
史料 忘れられた島 – 沖縄
今回は昭和24年(1949)12月3日に『うるま新報』に掲載された記事「タイム誌記者の見た占領下四年後の沖縄」の全文を掲載します。昭和24年10月に沖縄に赴任したジョセフ・R・シーツ少将の時代になって初めて米人記者が沖縄を自由に取材することが出来、その時来島した記者が「忘れられた島 – 沖縄」のタイトルでタイム誌に掲載したものになります。
史料 松原多摩喜氏の回顧録から
ここ最近ブログ主は、瀬長亀次郎さんに関する記述をいろいろ調べているうち、面白い情報をいくつか発見しました。今回アップするのは瀬長さんの七高時代の恩師、松原多摩喜氏の回顧録『七高在職十七年の好ましくない思い出と自身の失敗の数々』から史料を掲載します(この文章は安仁屋政昭著 『沖縄の無産運動』 からの抜粋です)。
この文章は、おそらく瀬長さんが那覇市長を追放され、その後民連(民主主義擁護連絡協議会)で議長を務めた1958年あたりに書かれたと思われます。七高時代の瀬長さんは、アカの道に進んだことが父親にばれて、送金を停止されて大変困っていました。そこで現在の窮状を当時の担任であった松原氏に相談します。そのような背景があった点を頭に入れて松原氏の回顧録をご参照下さい。
沖縄県庁職員の不祥事に対してちょっとした嫌味を思いついた件
本日(12月5日)の琉球新報27面に、沖縄県庁職員が児童買春の疑いで逮捕されたと報じられました。全文を掲載しますのでご参照ください。
直八(しんはち)の時代
先日28日に、沖縄県議会が「在沖米海兵隊員による飲酒運転死亡事故に関する意見書」を修正可決しました。米人であろうが沖縄県民であろうが、飲酒運転による死亡事故は極めて悪質であり、県議会がなんらかの抗議決議を可決するのは当然です。だがしかし、この案件と「在沖米海兵隊の早期の国外、県外の移転を求める」こととは別問題です。なぜなら仮に米海兵隊が県外、国外に撤退しても、代わりに沖縄県民が飲酒運転で悪質な事故を起こすからです。
沖縄における旧革新勢力とその支持者が堕落した最大の理由を考えた結果……
ここしばらくブログ主は瀬長亀次郎さん関連の史料をあれこれ調べていました。たしか故谷沢永一さんのご指摘でしたが、「その人が何をしていないか(あるいは何に対して沈黙しているか)を調べると、本質が見えてくる」との方針で記事を掲載しましたが、その過程で1つ面白いことに気がつきましたので、この場をかりて説明します。












