前回の記事において、現在の沖縄県が独立するための必要条件として
・戦後世代が抱える被差別意識を超える、琉球独立のための新しいイデオロギーの作成。
・東アジアにおいて中国共産党が冷戦に勝利すること
の2点を挙げました。それぞれについて説明します。
前回の記事において、現在の沖縄県が独立するための必要条件として
・戦後世代が抱える被差別意識を超える、琉球独立のための新しいイデオロギーの作成。
・東アジアにおいて中国共産党が冷戦に勝利すること
の2点を挙げました。それぞれについて説明します。
2017年1月7日に、第45回沖縄県高校野球部対抗競技会が開かれました。毎年恒例の競技会で、今年は興南高校が総合成績でトップになりました。先ずは記録をご覧ください。
平成29年(2017)現在において、沖縄県が日本から独立するチャンスはありません。理由は、前回の記事で説明した通り、日本への帰属が日米最強国の合意に基づいたものであること、現在の沖縄県民の大多数が本土復帰を良かったと思っているからです。
前回までに、19世紀末の国際情勢と琉球藩の経済力では、王国として独立することは極めて難しい件を説明し続けました。では21世紀において沖縄県が独立して国家として運営できるかを(冷やかしではなくて)真面目に検討します。
もしも琉球藩が、日本国の帰属を離れて清国の外藩となった場合は、国際情勢と琉球の産業経済の現実から、最終的には清国の保護領になる可能性が高いことを説明しました。そうなると王国は形式のみとなり、国際的には琉球は清国の一部となります。その結果琉球社会がどのような変貌を遂げるかのシミュレーションを今回は行いませんが、少なくとも文化の継承と近代化の進捗には大きな影響がでることは間違いありません。
前回の記事において、19世紀末に琉球王国が清国の外藩として半ば独立した場合、軍事と外交の負担に王国経済が耐えられず、やがて破綻してしまう可能性が高いことを言及しました。この記事に対しては「まるで北朝鮮じゃねぇか(笑)」という突っ込みがありましたが、それはさておき、今回は経済面について考察します。
今回は、もしも琉球藩が日本の帰属を離れて、清国の外藩としての琉球王国が復活した場合をシミュレートします。政治的には慶長14年(1609)年以前の琉球国の状態に戻ることになりますが、17世紀初頭と19世紀末では、琉球国内の社会環境や国際情勢が大きく変貌しています。そのような状況で、慶長以前の状態に戻った場合、琉球王国の運営はどのようになるのでしょうか。
前回の記事において「琉球藩の場合は、おせっかい焼きの日本人が「同じ民族だから」ということで引き取ってくれたことです」と記載しましたが、今回は、頭の体操の一環として、もしも明治政府が琉球藩を引き取らなかった場合どうなったかをシミュレートします。歴史にイフは禁物なんて野暮なことは言わずに、調子に乗りまくって日本以外が琉球王国を引き取った場合を想定して記事にします。
前回記事において、文久元年(1861)以降の琉球王府の役人の腐敗堕落の一例を掲載しました。その記事に対する反響は予想以上に大きく、この事実から現代の歴史教育において幕末期の琉球王国の惨状はタブー視されていることが窺えます。歴史教育の場において琉球王国の闇の部分を教えないのは止むを得ませんが、現代の歴史家までが一種の被差別意識に囚われすぎて、自国の黒歴史を直視しないのは好ましい状況とは言えません。
ちなみに、当時の王府の役人の腐敗エピソードは続きがあるのですが、さすがにこれ以上紹介するのは胸くそ悪くなりますので、今回は琉球藩と北朝鮮社会との違いを説明します。
前回の記事において、琉球藩時代の官僚機構の腐敗堕落の一例を紹介しました。王国末期(あるいは琉球藩)の時代の官吏の横暴ぶりは、琉球の歴史を詳しく調べるとすぐに分かるのですが、現代の歴史家は殆ど触れることなく(華麗にスルーと断言したほうがいいかも)、琉球処分の不法を強調する傾向があります。
だからブログ主が、当時の実体を知って貰うべく、気分を悪くしながらまとめ記事として配信しているのですが、実は当時の王府の役人の腐敗堕落の極めつけの話がありますので、この場を借りて紹介します。
前回の記事で、琉球藩と北朝鮮社会との共通点として「民間にお金持ちが見当たらない」ことを説明しました。今回はもう一つの共通点である「官吏の腐敗堕落が著しい」件を取り上げます。
1970年代において、北朝鮮のお役人の腐敗堕落が酷いなんて主張すると、それこそ朝鮮総連から猛烈なクレームが殺到し、それに便乗して日本の進歩的文化人からも猛批判を浴びるのが定例でした。ちなみに北朝鮮の社会の停滞と、官吏の著しいレベル低下を始めて世に明らかにしたのが、1984年刊行の「凍土の共和国」です。
本日(1月2日)は、突撃グルメレポートの特別編として、俺が調子に乗って国際通りのグルメマップを散策・紹介する記事を掲載します。正月そうそうから琉球藩の暗黒部分の記事をアップするのも正直あまり気が乗りませんし、せめて明るい話題から新年をスタートしたいと思います。
今回紹介する店舗は、ブログ主が過去に1度は訪れた場所です。三が日なので営業していないお店が多かったのですが、これらの店舗は訪れても外れがないことはブログ主が勝手に保証します。では調子に乗って国際通りのグルメマップを案内します。(実際に現地で撮影した順にアップします)
あけましておめでとうございます。
旧年中は、当ブログを訪問いただき、まことにありがとうございます。
去年の5月19日、当ブログがスタートして以来、おかげ様で記事数もPV数も順調に推移しました。浅学菲才のブログ主がアップした記事も間もなく180ページになります。目標の1000ページ掲載まであと800余り、今年も歴史その他の記事をどんどん掲載しますので、どうか皆さん,宜しくお願いします。
前回の記事において、琉球藩と北朝鮮では「支配者一族が、権威と権力と財を一手に握っている」ことについて記述しました。両者の共通点は、支配者階級内に儒教的な発想があること、家族主義的な考え方が根強いことによって、支配者一族に名誉や富が集中してしまう傾向が出てくることです。違いは、琉球王国の場合は「王国」ですので一族に社会のすべてが集中してもおかしくない政治体制ですが、北朝鮮の場合は結果としてそうなってしまったことです
その他の共通点を探っていくと、以下の2点があります。一つは「民間にお金持ちが見当たらない」ことと、もう一つは「官吏の腐敗堕落が著しい」点です。これらについて説明します。
太田朝敷関連の史料まとめです。史料は随時追加します
※令和05(2023)年1月15日、ブログの大整理のため、当ページの誤字脱字の訂正、レイアウト変更、および資料を追加します。今回のチェックで興味深いのが、「おおた姓」の表記に関して、大正5(1916)と昭和12(1937)の資料では「大田」と表記されている点です。ちなみに、昭和5(1932)年に刊行された『沖縄県政五十年』では「太田」と名乗っているため、案外当時はどっちでも良かったのかもしれません。
ちなみに、旧漢字は読者の便を図るべく訂正済なので、原文は引用元リンク先でご確認いただけると幸いです。