琉球藩の時代 その3

~旧慣温存について~

琉球・沖縄の歴史において1879年(明治12)の廃藩置県後の旧慣温存政策は何かと批判的に記述される傾向があります。では「当時の旧慣とは何ぞや?」と問われて即答できる人はあまり多くはいないでしょう。現代の歴史教科書に詳しく記載していないのが原因ですが、ここでは当時の代表的な旧慣について説明します。

旧慣温存とは琉球王府の時代に施行された政策、具体的には土地制度や税制などを指しますが具体的な例を4つほどあげます。

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琉球藩の時代 その2

~廃藩置県が現代の歴史家に過小評価されている3つの理由 その1~

1つは当時の琉球人が政治・社会のドラスティックな改革を望んでいなかったからです。当時の琉球社会の上級階級である有禄の士族、あるいは廃藩置県で失業した下級士族が新政府によい感情を抱くことはありません。

実は人口の多数を占める農民たちもドラスティックな改革を望まなかったのです。廃藩置県後に上級士族に対する課税が全廃され、税負担が大幅ダウンしたことによって当時の農民は新政を大歓迎します。ただし内法*地割制度*に代表される琉球国時代に完成した社会秩序の改革までは歓迎しなかったのです。

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琉球藩の時代 その1

ここ数日高校野球ネタばかり記事にしていて本ブログの趣旨である琉球・沖縄の歴史の記事がなかなかアップされていませんでした。夏の甲子園沖縄予選の決勝も終わったので、本題である歴史の話題に戻ります。今回から琉球藩から大日本帝国の沖縄県に至るまでの歴史(1872~1879)を簡単に記述しますが、これまでの歴史家が記述する否定的な内容とは一線を画する内容になります。

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俺が調子に乗って沖縄の高校野球の歴史を語るシリーズ 第98回全国高等学校野球選手権沖縄大会について その4

第二試合 美里工 vs 小禄

事前に予想したとおりのグダグダの泥仕合展開も、最後は効果的に加点し続けた美里工が勝利しました。美里工は打線が好調で、長打ありスクイズありの多彩な攻めで小禄の投手陣から7得点します。とにかく左打者が多く、各打者の振りが鋭くて上位下位満遍なくチャンスメークして効率的に加点したのが印象的です。

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俺が調子に乗って沖縄の高校野球の歴史を語るシリーズ 第98回全国高等学校野球選手権沖縄大会について その3

今日(7月16日)は夏の甲子園沖縄予選の準決勝を現地観戦しました。前回の記事で

嘉手納 3-1 那覇西

小禄 8-7 美里工

と予想しましたが、実際の試合結果は

嘉手納 3-0 那覇西

美里工 7-4 小禄

となりました。観戦レビューを載せますので、明日の決勝戦の観戦のお役にたつとありがたいです。

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俺が調子に乗って沖縄の高校野球の歴史を語るシリーズ 第98回全国高等学校野球選手権沖縄大会について その2

では準決勝に進出した4チームの比較表をチェックしましょう(プラス八重山商工と2015年甲子園出場チームの平均値も記載)。

キャプチャ

https://docs.google.com/spreadsheets/d/1FA308_VklTMuJVOFVHsfu9nY3tO2qJhKThcUvuqVsYA/pub?output=pdf

上記のデータは単純にイニングや得点、失点のデータをまとめてチームの勝ちあがり方を調べただけですが、意外に参考になります。これらのデータから嘉手納と那覇西はディフェンス重視で勝ち上がり、小禄と美里工は打撃戦を制したことがわかります。

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俺が調子に乗って沖縄の高校野球の歴史を語るシリーズ 第98回全国高等学校野球選手権沖縄大会について その1

いやぁ、今年の夏の高校野球沖縄予選は歴史上まれにみる波乱の大会になりました。まさか沖縄尚学が3回戦で宜野座に完敗するとは…しかも勝った宜野座もベスト8で逆転負けを食らうし、まさに読めない展開になっています。

春のシード校が3回戦で全滅なんて、ブログ主が知るかぎり聞いたことありません。シード校がふがいないというよりは沖縄県の公立のレベルが上がっていて、強豪といえどもコンディション調整を誤るとあっさり負けてしまうのです。事前予想がここまで外れたのは残念ですが、県全体のレベルが上がっている何よりの証拠で野球ファンとして実に嬉しい限りです。

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俺が調子に乗って高校野球を語るシリーズ 興南vs嘉手納の9回表のクロスプレーを解説するよ。

7月9日コザしんきんスタジアムで行われた3回戦、興南vs嘉手納の9回表のクロスプレーにおける誤審騒動について解説します。先ずはYouTubeの動画をどうぞ。

8回裏終了時には1-0と興南が1点リード、9回表で後がない嘉手納高校はノーアウト1塁で4番がレフトオーバーの長打を放ちます。その時のホームでのクロスプレーの判定が物議をかもしたのですが、たしかにこの角度から見るとアウトに見えます。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 男色の慣習がなかったこと その5

日本の歴史において男色は僧侶の慣習から武士の慣習と伝播します。このことは、仏教が武士の間でも深く信仰されていたことを物語るのですが、琉球・沖縄の歴史において13世紀末にに伝来した仏教から士族の間に男色の慣習は広まりませんでした。

琉球王国時代の宗派は臨済宗真言宗です。沖縄最古の寺院は護国寺(沖縄県那覇市若狭)で宗派は真言宗です。真言宗が伝来したにも関わらず、男色の慣習がもたらされていないのはどう考えてもおかしいのですが、問題は歴史家が其の点に気がついていないことです。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 男色の慣習がなかったこと その4

琉球・沖縄の歴史において辻町などに代表される風俗街が誕生したのは約500年前です。風俗産業に従事する女性のことを尾類(ジュリ)と呼びますが、琉球の風俗産業の担い手はすべて女性で実はまったく男性が関与していなかったのです。

日本の風俗産業の場合は中間搾取者として必ずと言っていいほど男性の存在がありますが、琉球・沖縄の歴史では1945年(昭和20)まで風俗産業に男性は一切関わっていなかったのです。このことは性産業を考える上では異例この上ないと言っても過言ではありません。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 男色の慣習がなかったこと その3

「沖縄の艶笑譚」という本があります。内容は「民謡昔エロトーク集」で庶民や士族の下ネタ中心に不倫や複数プレイ、果ては獣姦のエピソードまで記載されていて良い子の皆さんには読んで欲しくない本です。ただし何事にも例外があってこの本には男色のエピソードが一つも記載されていないのです。

オモロにも琉歌にも文学にも男色をテーマにした作品はありません。例外として組踊りの二童敵討にそれらしき記載があるのみでしょうか。この作品は親の敵を討つのがテーマで男と男の痴話のもつれから刃傷沙汰になった訳ではありません。衆道敵討ち*とは全く違います。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 男色の慣習がなかったこと その2

琉球と薩摩とは1609年以前にも付き合いがあります。数百年来の長い交流があるのですが、それにしては薩摩から持ち込まれた文化がほとんど見当たらない*のです。薩摩を経由して日本の文化が持ち込まれますが、沖縄を実質的に支配してきた国の慣習が持ち込まれないことはよく考えると異様です。

*琉球侵攻における戦争目的は明国との貿易利権の確保です。琉球人が薩摩化するとどうしても不都合が生じてしまうため、薩摩藩は琉球人と薩摩人との区別を強調する政策を取ります。おかげで薩摩と琉球王府の関係は良好で、270年にわたる平和と安定の時代が訪れます。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 男色の慣習がなかったこと その1

日本の歴史に於いて最も人気が高い時代は織田信長などの戦国武将が大活躍した戦国時代か、あるいは新撰組の物語が有名な幕末でしょうか。戦国時代(1467~1590)は京都の足利家の凋落から豊臣秀吉による天下統一までのストーリーに興味を引かれる読者も多いでしょう。登場人物の魅力にも大いに惹かれます。

そんな戦国時代ですが歴史教科書には決して載せない事項があります。タブー扱いになっていますが、それは人身売買戦国武将たちの男色の慣習です。例えば織田信長*は女性よりも男性との性的交渉が多かったなどと教科書に記載することはできないでしょう。歴史教育ではタブー扱いでも問題ありません。

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琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 イスラム教が普及しなかったこと その7

琉球国にイスラム教が普及する可能性は1511年(永正8)にポルトガルがマラッカを占領し事実上南方との交流が制限されたことで限りなくゼロに近づきます。1609年(慶長14)には島津氏による琉球侵攻及び江戸幕府による海禁政策によってイスラム教はおろか新しい宗教が普及する可能性もゼロになります。

明治の世になってようやく信仰の自由が保障され、その結果禁教扱いだった浄土真宗やキリスト教が普及しますがこの期に及んでもイスラム教は蚊帳の外です。大正→昭和→平成の世を経ても普及する様子はありません。

イスラム教圏ですらアメリカナイズされつつある今日、沖縄に於いてイスラム教が普及する可能性はゼロと言わざるを得ません。1372年から1511年の交易時代に布教のタイミングを逃したことがすべてです。趣味や学問として研究することはあってもイスラムの教えに帰依する沖縄県民は今後出現しないと断言せざるを得ません(終わり)。

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